エネスコの無伴奏(三)


『わが友よ、お前はとてもきれいで可愛い。だが、この私にはお前は余りにも小さ過ぎるのだ!』
世に名高い独白が示すように、エネスコは時としてヴァイオリンを憎むこともあったヴィルトゥオーゾでした。それは一般に作曲をする時間を奪う演奏活動への苛立ちと解されていますが、一面、旋律楽器であるヴァイオリンの限界への不満でもあったようです。回想録から以下の記述を拾います。


『またピアノが弾けるようになると私は作曲を始めた。(……)私はそれまで使っていた単音(モノディー)楽器を多音(ポリフォニー)楽器と大喜びで取りかえた』


『……ある日、本腰をいれてヴァイオリンを練習しなくてはならなくなったとき、私は突然、自分が袋小路のなかに追いこまれてしまったように思えたのです。それにひきかえて、私にかぎりない水平線を開示してくれたピアノ、その前に坐ったときの私は、なんとみずみずしい喜びを味わったことか』

エネスコの無伴奏が他のどの演奏とも違うのは、まさにこの点に由来するように思います――というのも、一方にバッハの多声的書法があり、かたえにヴァイオリンという楽器の生理があって互いに矛盾するとき、多くのヴァイオリニストが多かれ少なかれ中庸的の道を取るのに対して、エネスコの意識はひたすらポリフォニックな音構造の再現にあって、そのためとあらば、ヴァイオリンという楽器がもっとも魅力的に響く演奏法の常道も振り捨てて顧みることがありません――蓋し、器楽的愉悦に拘っていては超えることのできない限界のその先をエネスコは見据えていたのです(かといってエネスコがこの楽器ならではの美質に不感無覚どころではなかったことは、SP録音のラ・フォリアや詩曲からも明らかでしょう)。

多くの人がこの演奏をはじめて聴くときに多かれ少なかれ違和感を感じる所以の、激しいアタックやしばしばかすれがちな音、「悲鳴をあげているよう」な重音――といった要素はまさしくそこに由来します。エネスコの衰えによる部分もないとは云えないでしょうが、わたしには、それだけの問題と決めつけることはためらわれます。何故といって、そのような「瑕」がある一方で、エネスコの弓は気迫に満ちたリズムをヴァイオリンから引き出し、強弱を自在に対比させて明晰で力強いアクセントを刻みつけることによって音の文目を生き生きと浮かび上がらせているのですから――厳しい造形のなかにも躍動感がみなぎっており、その強靭な緊張感はさながら天使とヤコブの闘いのそれです。

この無伴奏を聴くと、泥にまみれ、血みどろになって必死に格闘するエネスコの姿を見る思いがわたしにはします。向こう傷の一つや二つ、付きもしましょう――そんなことにかまってはいられないのです。それがご不満という方は、頭に孔雀の羽でもおったてて、見目麗しゅう決闘ごっこしろとでも云うのでしょうか。エネスコにとってバッハを演奏するということは到底そのような絵空事ではありえません。

かくも壮烈な力業を前にして、エネスコも昔のようではないなどと喋喋するほどわたしは愚かではありません。ただただ圧倒されることを選びます。