エネスコの無伴奏(一)

エネスコの無伴奏というと兎角技術の衰えが指弾されがちです。賛否こそ異なれ、この演奏についてしばしばなされる「腐っても鯛」式の物言いと「伝説の名演といわれるがどこが良いのか分からない」といった類の難詰とは、つまるところこの同じ出発点から導き出された結果であるようにわたしには思われます。換言すれば、エネスコのテクニックには問題がある、という共通認識が世に罷り通っているのです。

いかさま左様、これは完全無欠の演奏ではありません――しかしながら、楽器やっていれば小学生のガキにでもわかるようなことを大のオトナがいちいちあげつらって何になるというのでしょう。なにしろ当のエネスコに「生命というものを欠いたにせものの奇跡」のためとて身をやつすつもりが端からなかったのですから。


『私にはこうした、人々が情熱をかたむける完璧さには興味というものが感じられないのです。演奏家にとって重要なことは、自分もふくめて音楽を聴く人々を感動させることです』(以上『エネスコ回想録』より)
その点われらが内田光子女史は、上から目線の不躾な留保は一切抜きで「とても大きな弓で弾いているように聞こえる」とまじりけのない賛美をエネスコに捧げていました(※正確な引用ではない)。これは微に入り細に穿った具体的な分析ではありませなんだし、聴いたことがない人にも字を追っているだけで音楽が聞こえてくるような表現というわけには参らないかもしれませんが、エネスコに感ずるところある者にとっては非常な実感のあることばです。

内田女史がかくのごとき至妙の評を発している以上は、実のところこれ以上語られうる余地など残っていやしないのですが、エネスコのテクニックに関しては減点評価するのみで事足れりとする世の風潮があるのが現実です。それに抗して、わたしはわたしなりに感じるエネスコの「弓の大きさ」を拙い筆で言あげしてみようと思っています。