エネスコの無伴奏(五)

個人的な昔話をすれば、エネスコの無伴奏を初めて聴いたときに感じたのは、尋常ならぬ切迫感でした。テンポの速さについては先にも述べましたが、その苦しげなアゴーギグも、先にラ・フォリアや詩曲を聴いて心底エネスコにまいっていたわたしには、あまりにも異様に感じられ、取り付くしまもない厳しさとはかくのごときを云うのか、と、正直なところ途方に暮れたものです(ゆえに、わたしは「伝説の名演と云われるだけのことはあり……」式の物言いに対してきわめて懐疑的です)。

しかしそのうちに、これはエネスコの祈りの姿なのではなかろうかと思うようになりました――そしてそのとき、この演奏は自分にとって特別なものになりました。

というのも、わたしにとってバッハは「自明」ではない作曲家なのです。正直申し上げて、楽器の素養もなければスコアもよう読まない自分には、特に晩年の、作曲技法が自己目的化したかとさえ思われる「フーガの技法」や「音楽の捧げ物」といった作品はギリシア語のように不可解で、「バッハの崇高で幾何学的な美」などと云われてもまるで分かった気になどなれやしません(同じ理由でゴルトベルク変奏曲もわたしの「無人島への一枚」とはならない)。バッハ崇拝者からすれば不遜と思われようコルトーの懐疑的見解(『しかしカントール(楽長)バッハに対してコルトーは、フォーレに倣って、空虚な修辞法をもつページを非難した』云々)などを目にしてわずかに慰められたように思うといった具合。塩野七生風に云えばサイレント・マイノリティーの悲哀を噛みしめているわけです。

しかるに、エネスコはまさに誰よりも熱烈にバッハを崇拝していたにもかかわらず、その演奏は数学的な美をレアリゼーションしてこと足れりとするところから最も遠くにありました。エネスコにとって美はあくまで美でしかなく、その背後に潜む真実こそが探求の対象だったのです――こう云うと、それは悪しき精神主義だ、幾何学的美はそれ自体で真実である、と反駁される方がきっとおありでしょう。しかしわれらがチェリ様のお出ましを願うまでもなく、美は釣り針でしかありません。わたしは美的感受性が鈍いですからね、たとえばアムランのようなピアニストを聴いても「機械のほうがもっと正確に弾くんじゃないのぉ?」としか思えなかったりしますが、美をかなぐりすててさらに深奥に迫らんとするエネスコの情熱には、不信心な人間が尊い行者に対して不信心者なりに感じる畏敬の念を禁じえないのです――換言すれば、わたしのような不信心者には「生ぬるい」恩寵にひたりきった者が語る神への愛がピンと来ないんですよ。その点エネスコの無伴奏はまさにヨブ記をも思わせて凄絶です――その回想録に以下の文があるのも、わたしには何かの偶然とは思えません。

『神とは、その形姿を眼にすることができぬからこそ、信仰の対象となっているのです。しかし、神の許へ赴くための道の多種さに、私は怖気づいてしまう

エネスコの無伴奏を聴くときわたしの念頭に浮かぶのは、狭き門より力を尽くして入れ、という旧約の人口に膾炙した一句です。そこではアゴーギグは蓋しエネスコの呻吟そのものであり、取り憑かれたかのように先へと急ぐそのテンポは、どこまで近づいてもはっきりとその手に掴みとることのできないものを思いつめた衝動の反映なのです。

あえてもっとも険しい道を選び、艱難辛苦に身をよじるようにしてバッハの真実に肉薄しようとするエネスコの後姿を見た――と思ったとき、わたしはこの老いたるライエル廻しに付いてゆくことを選びました。

『エディプ』の主人公の有名な科白は蓋しエネスコ自身の叫びでもありました――『人間だ、人間は運命よりも強い!』――そのエネスコが演奏するバッハだからこそ、わたしにとって彼の無伴奏は無上に尊いのです。


(引用はベルナール・ガヴォティの『エネスコ 回想録』と同じく『アルフレッド・コルトー』より)