エネスコの無伴奏(六)

最後に、アウトサイダーとしてのエネスコについて。

『バッハの演奏法については、誰の指導も受けなかった。私は手探りで、暗闇を進んでいきました』とエネスコは自ら語っていますが、その「暗闇」とは、バッハ認識が今ほど進んでいなかった当時の状況の謂であると同時に、中欧音楽を「自明のもの」として享受する共有感覚のようなものがルーマニア生まれのエネスコに対しては閉ざされていたことをも意味するように思います。

エネスコがパリ音楽院に入学したとき、先輩のコルトーたちは『ちょうど古参兵が≪新兵≫にいじわるするように、彼を少しからかってみた』といいます。それ自体は良くあることでしょうし、「試験」に合格したエネスコは自ら感激をこめて回想しているように『とても親切に、気持よく迎え入れ』られたとはいうものの、このようなテストはエネスコにその後も長い間つきまとい続けたことでしょう――ヨーロッパ人の中華思想たるやギリシアの昔以来の固陋ですから「ルーマニア人にベートーヴェン(はたまたフランク、ショーソン)の何がわかる」とかいった類の(たとえ暗黙のものであれ)蔑視があったことは想像するに難くありませんし、さらに云えば、エネスコの音楽がパリに受け入れられた背景には十九世紀末以来のエクゾティック趣味の文脈もあったのではないでしょうか(たとえば――作品自体の出来不出来にかかわらず――ルーマニア詩曲の成功と八重奏曲などの不成功を別したのはまさにそこに由来すると思われます)。

そのような状況のなかでエネスコは寡黙に、しかし敵意の十字砲火にもたじろぐことなく、自らの信ずるところを歩みつづけたのです。よほど強靭な反骨精神がなければできることではありません――これについては、謙譲さとユーモアのオブラートに包まれてはいるもののまさにエネスコの面目が躍如とした一節が回想録にあります。


『そして、ヴァイオリンの弓の代わりに指揮棒をにぎりしめたとき、何度か、かぎりない慰安と充足感を覚えました。というのも、人々がことあるごとに、私のことを二足のワラジをはいていると非難していたので、私は第三の職業――オーケストラの指揮者――をもちたいと思っていたのです』
閑話休題。民族の傲慢とか云うこと(※うろ覚え)をわれらがチェリビダッケは指弾しています。いわく、フランス人ほどドビュッシーラヴェルのひどい演奏をする連中はいないし、ベルリンのコンサート・ホールでは日夜ベートーヴェンブラームスの大殺戮が繰り広げられている、と――エネスコのバッハもまた、ドイツ人だったらこうは弾かないし、弾けもしないであろうという演奏です。

自らの修行時代にまわりで弾かれていた「サラサーテ風」のバッハの酷さについてエネスコは控えめに回想していますが、これはバッハを「自分たちの音楽」であるとみなそうとする伝統なるものがしばしば唾棄すべきものでしかないことを示す恰好の一例でしょう。人間は、自明であると思いこんだものをそれ以上深く知ろうとすること少ない生き物なのです。たとえばどうやって息をするかなんて普段は誰も考えなどしないように。逆説でも何でもなく、古今伝授めいた世界が閉ざされていたからこそエネスコは誰よりもバッハの真実にひたぶるに肉薄し得たのです。

この問題は、われわれ西洋古典音楽を聴く東洋人にとっても無関係ではありますまい。蓋し、「本場物至上主義」の名のもと西欧の伝統及価値観を盲目的に崇め奉っているだけではクラシック音楽の本質などいつまでたっても見えてきやしないのです。その良い例が、二日酔いでスタジオ入りしたとしか思えないフランソワのショパンソナタを聴いて「これぞパリのエスプリ!」とかいって感激するある種のフランスかぶれでしょう。奴らは自分には「趣味」があると思い込んでいますが、なに、実際はその幻想に振り回されているにすぎやしないのです。

まあ、何のかのと云ってわたしもまた日常七面倒なことを考えずディスクをとっかえひっかえしているわけですが、エネスコの無伴奏やチェリ様のブルックナーを聴くとき、自分にとっての音楽の真実とは一体何なのだろうか、と時には殊勝なことを思いもし、更に稀には、それが自分に対しても決して閉ざされているわけではないのだ、と感じる瞬間があります。そう思うことができなかったら、もうとっくにクラシック音楽を聴くことなどやめてしまっていたことでしょう。