フランソワの綱渡り

フランソワは練習なんかろくにしなかったけど、興にのれば神がかり的演奏をした――というようなことがまことしやかに囁かれていますし、わたしなども何となくそう思い込んでいたのですが、彼とて練習しなければそれなりにしか弾けなかったし、練習をすればした分だけ弾けるようになる、というごくごく当たり前の事情が、ふたつのヘ短調バラードを聴くと見えてきます(ちなみに当のフランソワは、自分はむしろやりすぎなくらい練習を沢山すると語っていました)。

フランソワはテクニックが弱いと頭から決めてかかっている向きには、青柳いづみ子女史の『ピアニストが見たピアニスト』中、彼のショパンエチュード(一九五九年録音)について言及されている個所*1を一読して認識を改めてもらわなくてはなりますまい――むろん、なんといってもまずは直接レコードにあたって頂くべきなのですが、驚きあきれることにはこのエチュードを聴いてなお「テクニックに問題あり」と決め込んでいるヤツが世の中にはたくさんいるのです。*2音楽を耳ではなくアタマで聴くとはまさにこのこと……

わたしにいわせれば、これくらい酒の匂いがしないフランソワも珍しいです(笑)。エチュードの何曲かには同曲異演がありますが、小節線ごとにフレーズがブツブツ切れているようなぎこちない出来(特に六十年代のステレオ録音)で、全曲盤の方が格段にスコアをよく消化しています。この録音にかけるフランソワの意気込みが窺い知れようというものです。

それでいて、ヘ短調バラードの再録音におけるようなイマジネーションの減退を毛頭感じさせません。精緻にして闊達、フランソワの数あるレコード中、最上ランクの逸品と申し上げておきましょう(青柳女史は作品一〇を買っておられるようですが、個人的には、何かに取り憑かれたような凄まじい木枯らしに惹かれるものを感じます)。

しかるに、テクニックと表現を二項対立的にとらえるべきではないとゲンリヒ・ネイガウスは厳にいましめていましたが、フランソワのイマジネーションには繊細な香りのようにはかない一面があって、それを生かしつつも再現芸術としてのレコードが要求する技術水準をクリアしようとすることには、一種危うい綱渡りの趣があったようです――フランソワの録音には、スタジオ録音としてはキズが多すぎるものも含まれる一方で、これはあまり指摘されないようですが、ヘ短調バラードの再録音や、吉田秀和翁が「一体どうしてしまったのだろう」といぶかしんでいる幻想即興曲(これまた再録音)のように、技術的には一応きちんと弾けているにもかかわらず気のぬけた、奇妙に虚ろな演奏もまた散見されるのです。*3

ある人は六十年代以降フランソワの演奏水準はガタ落ちしたと嘆きます。一見二日酔いでスタジオ入りしているとしか思えない*4こともしばしばであるそれらの録音を聴いてみると、たしかにキズの多さは否定しがたいでしょう。しかしながら、それも覚悟のうえという一種の諦観がそこには漂っており、フランソワの演奏中特に世評が高いモノラル期のバラード集やマズルカ集と比べても、このピアニストの天才がより濃密かつ直截にあらわれている部分があるように、わたしは思います。*5端的にいってそれはフランソワにおけるデカダンスの様相であり、感嘆の思いといたましさとが、こもごも聴く者のうちに去来します。

……ゴビの最期は私を打ち砕いた。なぜなら、彼は彼のまま、酒と麻薬に負け、底辺の世界のむさ苦しいカフェで演奏しながら死んでいったからだ。彼が演奏していたその酒場で誰かが録音したテープを、幸運にも聴いたことがある。幸運と言ったのは、そんな世界に身を落としていてさえ、「この楽譜をナザレのイエスに捧げます」などとうわごとを言う状態にあってさえ、彼の天才ぶりは認められてしかるべきだからだ。三本指でピアノを弾いても、その響きはとても美しかった。ピアソラ

ゴビ(GOBBI, Alfredo)はピアソラに大きな影響を与えた破滅型の天才音楽家。ゴビとあるところをフランソワと置き換えてもそのまま通用しそうな、これは墓碑銘です。*6

*1:中公文庫版では二一七頁以降。

*2:googleで「ショパン エチュード フランソワ テクニック 弱い」なんてキーワードを打ち込めば、恥さらしなページがいくつもヒットします。

*3:フランソワの録音はみんな一発録りで、ミスには全く無頓着だった、という説が広く行われていますが、実際はそれなりのテイクを重ねていたことを当時の録音技師が証言しており、当のフランソワは「録音は気に入らなかったら弾きなおせるからいい。実演はそうはいかないから」と語っています。ここでもまた、神話は虚構でしかなかったのです。

*4:たとえば、ショパンのピアノ・ソナタ

*5:好き嫌いは別として、ベートーヴェンの三大ソナタの録音など、まさに妖気が色濃くたちこめています。

*6:ナタリオ・ゴリン『ピアソラ 自身を語る』(斎藤充正訳、河出書房新社)、九十八頁