コルトーのショパン/第一バラード(四)

承前

――こう書くと、二九年盤はさもいいことづくめのように思われるかもしれません。いかにも、コルトーの同曲異演中もっとも万人受けしうるのは、おそらくこの演奏でしょう。ショパンの形式感が尊重されているし、技術は安定している――ということはすなわち、繰り返し再生してたのしむレコードというメディアの美学的要求にかなっている、ということでもあります。さらにいえば、演奏のよしあしとは直接の関係はないにせよ、すでに一家をなしていた自らのスタイルをある意味捨ててあたらしい解釈をとろうとした自己への厳しさも敬服に値するでしょう。

しかしながら、ここでひとつ種明かしをすれば、わたしがはじめて聴いたコルトーの第一バラードは三三年録音で、そこからさかのぼるような按配(要は、今回とりあげる順番と逆に)で二十年代の演奏に触れていったのですが、この二九年盤をはじめて聴いたときに感じたのは、率直にいって、物足りなさでした。

逆に、最初の録音しかコルトーの第一バラードがのこされていなかったとしたら、わたしはこれで十分満足し、ほかのどのピアニストの演奏よりも好んで聴いていたかもしれません(いえ、きっとそうでしょう)。極言すれば、再録音のことを念頭においてはじめて、彼がこの演奏に自足しきれなかったことが推測できるというだけのことで――ただ、コルトーを聴くことは一面、彼の問題意識を共有し、その思考の航跡をたどってゆくという営為でもあるので、演奏の如何とはまた違った観点があってもいいでしょう……

ともあれ、わたしの不満の正体は何だったのか、今にして思えば、まず第一に、いくら当人の意志によるものとはいえ、コルトー本来の流儀が手控えられているため、このピアニストならではの闊達さや生き生きとした情感が少々減殺されてしまっている点にあります――これは二六年盤は無論のこと、かれのシューマンやリストと比べても、です。

第二に、ショパンは当然ながらバッハでもなければモーツァルトでもありません。そのエクリチュールには古典的な性格と同時に、彼にしか書けない新しさも含まれていたわけで、それがショパン独自のロマンティシズムということになるのでしょうが、二九年盤は古典的な性格に重心をおいた分、そちらの側面が少々おざなりにされているような気がしてならないのです。

たとえば四分過ぎ以降の二度目のクライマックスなどは、燃え立つ炎のような旧盤にくらべるとどうしても色褪せて感じられます。そして、これに関しては最初の録音がやりすぎたというより「一歩後退」といった印象が――というのも、ここでは音楽自体に、バッハやモーツァルトだったら絶対こうは書かない(書けない)、古典的な観点からすれば「常軌を逸した」昂揚感が含まれており、それを上手くすくいあげているのは、二六年盤における「ロマン派弾き」としてのコルトーの手腕だったからです(コーダの「間」も、二九年盤がいちばんあっさりしています)。

端的にいえば、コルトーショパンの演奏において拍節感の保持とフレージングの自由とを両立させることに失敗しているのです――最初の録音においても、再録音においても。

わたしは先に、二六年盤においては派手すぎるくらい派手な部分と歌いまわしの硬い部分とが混在しているというようなことを述べましたが、二九年盤は、ロマンティックな華やかさをスタティックな第二主題に引き寄せるかたちで全体の統一感を担保したという見方ができなくもありません。もういちどコルトーの述懐を引けば、ここで彼は「単純に」ショパンを弾こうとして成功しなかった――ような気が、わたしにはします。