コルトーのショパン/第一バラード(五)

一九三三年盤は、一見、最初の録音に先祖帰りしたかの観ある演奏です。

たとえば、第一主題で左手にスコアでは指示されていない強弱をつけたり*1するのもそうですし、フレージングの抑揚にいたっては二六年盤に輪をかけて濃密です――こう書くと「お前のいっているのはルバートのことか?」といわれそうですが、まさしくそのとおり。コルトーといえば誰もが連想するであろうルバートの語法は、ここに至って顕現したのです。

ルバート自体は、ショパン自らの演奏でも積極的に援用されていたことが伝わり、孫弟子にあたるモーリッツ・ローゼンタールの弾くワルツなど、その自在きわまるアゴーギグには、ショパンその人もこんな風に演奏していたのだろうかと思わせるものがあるでしょう。コルトーもまた、ショパンの教え子であるカミーユ・デュボワ夫人のもとを訪れて多くの教唆を得たことが知られていますが、しかるに彼のルバートには、「ショパン流」のそれとは似て非なるところがありました。

第一に、コルトーの演奏ではしばしば、左手もまたリズムを正確に刻む役割から自由であることがあげられるでしょう。これが「右手が何をしていても、左手はそれを知らないかのように正確にテンポをまもらなければならない」というショパンの教えに背馳するものであることはいまさら申すまでもありますまい。しかのみならず、フレージングの伸縮もまた、このピアニストのそれは誰にもまして大胆でアクが強く、リズムの規則性に従順どころの話ではありません。

それでは二六年盤と何がちがうのかといえば――ここではある一音を強調すると、同一小節内でかならずその分の埋め合わせがなされているのです。

彼はルバート(奪うがごとく)に演奏した。だが、同一タクトの終わらぬうちに「奪われたるもの」を補償した。そして決してタクトを乱さなかったのである。コルトーの演奏を聴いていただきたい。彼はショパンの曲に(ペダル操法においても)、この男性的性格をあたえることにみごとに成功している。*2

これはコルトーショパン演奏を高く評価したエトヴィン・フィッシャーが書き残している句で、さいしょの「彼」とはショパンのことですが、おそらくこれは、あまりショパンを弾かなかった*3フィッシャーが、コルトーの演奏を通じて観念したところのショパン像であることにご留意あれ。

――しかし、こう書くと「何を当たり前のことを」とお思いの方も多いことでしょう。いかにも、ルバートというのが元来そういうものです。

しかしながら、ショパンにあってはあくまで「右手が何をしていても、左手はそれを知らないかのように正確にテンポをまもらなければならない」というのがテンポ・ルバートの方法論であって、その結果として、旋律線の伸縮が拍節内でやりとりされます。それに対して、繰り返しになりますが、コルトーは「左手のリズム」という大前提をあえて曖昧なものにしています。

思うに、ルバートの目的が拍節感と表情ゆたかなアゴーギグとの両立であることにはショパンコルトーも変わりはないでしょう。しかるに、前者が左手の正確なリズムを明示してそれを担保しようとしたのに対して、後者は、そうすることよりも「奪われた」テンポの復元力に依って拍節感を暗示し、聴く者にそれとなく感じさせることを選びました。いってみれば、ショパンの演奏では彼の左手がバロック通奏低音のような役割をはたしているのですが、コルトーの場合見えない指揮者がいて、両手がそのタクトにしたがっているかの感があります。

*1:二九年盤では歴然と手控えられていました。

*2:エトヴィン・フィッシャー『音楽観想』(佐野利勝訳、みすず書房

*3:フィッシャーのショパンを聴いたことがあるリパッティによれば、バッハやベートーヴェンを弾いていたのと同じピアニストとは思えないような散々の出来だったとか。