フレイタス=ブランコのラヴェル

ラヴェルが「楽譜通り」に弾かないカザルスに注文をつけて「演奏家は作曲家の奴隷だ!」と言い放った一件はひじょうにカザルスの心証を悪くしたのみならず、わたしたちが観念するところの作曲家像(肖像写真でお馴染みの醒めた眼差し、精緻きわまる人工楽園の美、非情とあやうい官能……)が形成されてゆく過程において間違いなく一役果たしているように思われます。

私はラヴェルがひじょうに若い頃、彼を知りました。そして彼の性格のいくつかを目のあたりにして、ある種の哀れみさえ感じました。(カザルス)*1

しかるに、マニュエル・ロザンタールの回想記に現れる師ラヴェルの姿は、音楽だけ聴いているぶんにはちょっと思うだにしなかったような人間味と暖かさに溢れています。レッスン中、ちょっとした行き違いから思いつめてしまってラヴェルの家を飛び出したロザンタールをバスのなかまで追いかけてきて、「先生にさよならもいわずに帰るなんて法はないよ」と語りかけた師の情愛には、意想外であるという以上に、深く心を動かすものがありました。

ラヴェルにはふたつの顔があったのでしょうか――よく知られた方の側面をみごとに体現しているのが(たとえば)チェリビダッケだとすれば、ペドロ・デ・フレイタス=ブランコの指揮するラヴェルには、まさに親しく接した恩人ラヴェルのやさしさをなつかしく思い浮かべているような味わいがあります――彼は若い頃にラヴェルに引き立てられて頭角を現した指揮者で、「ラヴェル自作自演」と伝わるピアノ協奏曲のSPレコードも、実際タクトを握ったのはフレイタス=ブランコであったとか。

この妙に録音の悪いピアノ協奏曲の録音は、残念ながらラヴェルフレイタス=ブランコ、独奏のマルグリット・ロンの誰にとっても名誉となる出来ではありませなんだが、五十年代にデュクレテ・トムソンに吹き込まれた管弦楽曲集は、実力に比して録音の極端に少ないこの指揮者を代表するに足るすぐれたレコードです。一部ではボレロの演奏時間がチェリ様よりも長い(ムリョ十八分三十六秒)ことばかりが云々されていますが、どうしてそのように皮相な聴き方しかできないのだろうかと耳の程度が疑われるような話で。

オケはシャンゼリゼ管、もといフランス国立放送管ですが、アンゲルブレシュトやマルティノン、チェリビダッケの誰とも違った、独特な音色をフレイタス=ブランコはこのオーケストラから引き出しています。肉感的なぬくもりとイマジネーションにあふれたひびきで、とにかく「楽器の音」がしないことには驚嘆の念を覚えます。これを聴いて「田舎臭い」と抜かす低脳がいるようですが、そいつらはクの字なんぞを聴いて「これこそパリのエスプリ」だと酔い痴れているのでしょうかねえ――ああ馬鹿々々しい。

どの曲もそれぞれに良いのですが、濃密なノスタルジーでむせかえるようなラ・ヴァルスが格別のすばらしさです。チェリ様が同じオケを振った凄演と並べても色褪せることのない、きわめて稀なるレコードのひとつ(唯一の、といっても構わないのだけど、まだ聴いたことのないあれやこれやを考慮して……)。*2

*1:ジャン・リュック・タンゴー『コルトー ティボー カザルス 夢のトリオの軌跡』

*2:カンパーがトゥッティで弾いていたころのウィーン・フィルが「本場」の意地を示したかの感あるサバタとのライヴ録音をあげるべきかもしれませんが、第二次大戦後のサバタは、残念ながら指揮者としてはもう終わった人で、ベルリン・フィルを指揮したSP録音の輝きはもうそこには見出せません……