リヒテル夫妻の『詩人の恋』

リヒテル夫人のニーナ・ドルリアクが歌手だということは知識として心得ていたものの、CASCAVELLEから三枚組CDが復刻されてはじめてわたしもその歌を聴くことができました。一部を除いて夫君との共演で、ロシアものが大半を占めますが、バッハやモーツァルトドビュッシー、大曲としては『詩人の恋』などもあります。

同じロシア人の歌い手ということで大プリマ・ヴィシネフスカヤのCDを今引っ張り出してきましたが、ロストロポーヴィチ夫人のものすごい恰幅(それこそ、髭のひとつも生えていそうな)に対してドルリアクは、ひとことで云って可憐。澄み透った、それでいて不思議な色気のある――たとえばシュトライヒやゼーフリートといった歌い手たちより強く「女」を感じさせるのが彼女の著しい特長でしょう――とても魅力的な声です。同じロシアでも男声歌手であればレメーシェフのように甘美で小味な良さのある歌い手がボリショイの大看板として通っていたらしいことを思えば、彼女には歌手としてよりも音楽院の名教授として、リヒテルのパートナーとしてのイメージが強いことには少しばかり不可解なものがあります。

『詩人の恋』はRECORDED RICHTER(改訂版)によれば一九五六年のライヴとのことですが、意外なくらい徹底して婦唱夫随で、たとえば第十一曲のようにピアノ前奏がもっと積極的にテンポを作っても良かったのでは、などと思う部分がままあり、シューマン弾きとして知られたリヒテルを聴きたい向きには少し物足りないかもしれません。ドルリアクも水準以上の立派なテクニックの持ち主だと思いますが、元来男声のために書かれた曲を歌っているためか音域によってはちょっとつらそうな部分があり、かてて加えてロシア語歌唱なので、聴く者を選ぶ演奏となっているかもしれません。もちろん第十二曲のように、夫婦デュオならではと思わせるきめの細かい繊細さがあってそれこそ彼らの本領でしょう。ドルリアクの瑞々しく情感豊かな歌唱を、蓋し万事心得たリヒテルが見事に引き出しているのです。

しかしこの演奏で、とりわけ、異常なまでに心に残るのは、なんといっても「恨むまい」です。ご承知の通りタテマエから本音が透けて見えるウジウジした曲とばかりわたしは思っていたのですが、びっくりしましたね、女性が歌うと、これがもはやホラーの域に達しているのではないかというくらいおっっっっっそろしいのです。ホラ、あれですわ、口では「怒ってないから」とかいってるけど顔は無茶苦茶怒ってるという……(ex.『晩春』の能楽堂からの帰りの原節子)身に覚えのあることやないことが色々思い浮かんで背筋を冷たいものが走ります。はじめて聴いたときは寿命が縮まるかと思いました。

その点オトコって奴は、ほんとうにウブでバカで情けなくって、かわいい生き物だよなあ……とシミジミ思う次第です。