バッハのクラヴィーア協奏曲第五番

バッハのクラヴィーア協奏曲というとやはり第一番が突出した知名度及び演奏頻度を獲得しているかと思いますが、わたしは個人的には第五番が好きです。なんといっても二楽章がすばらしい。バッハの書いたもっとも美しいメロディーのひとつだと思います。

しかるにこの曲には意外と良い演奏が少なくて、ハスキルCBS)やリヒテル(DOREMI)ほどの名手でもちょっと彼ら本来の水準に達しているとは思えない録音しか遺っていません。

もっとも安心して聴くことができるのは、やはりエトヴィン・フィッシャーの弾き振り録音でしょう(EMI新星堂)。最近吉田秀和翁の『世界のピアニスト』のフィッシャーの項を再読しましたが、感嘆久しかったのは、フィッシャーのバッハのロマンティックな味わいを指して「これは、十九世紀的なものというより、音楽という芸術に本来のロマンティシズムというべきだといってもよいのではないか」としているところです。本質そのものをついてまさに間然するところありません。この演奏も、特に第二楽章など、フィッシャーならではの清冽なロマンティシズムとエスプレッシーヴォぶりの最高の一例となっています。

一方で興味深く思われたのは、三楽章の、たとえば[2:28]などでトゥッティの合いの手に渾身のフォルティシモを打ち込むというダイナミクスの変更が施されていることで、その効果的なること、ほかの演奏でここがそのまま弾かれているのを聴くとどうにも物足りなく感じられてしまうくらいです。

たとえばブゾーニ編のクラヴィーア協奏曲第一番(リパッティの名演があります)と比較すればいっそ穏当といってもいいくらいであるフィッシャーのスコアの取り扱いですが、実はこのように結構大胆なものを含んでいたりします――同じことをチェンバロの貧弱なヴォリュームでは再現できないという意味でこれは十九世紀的逸脱だと見られても仕方ないでしょうが、ピアノでバッハを弾くからにはむしろこれくらいの創意工夫をもって当たるのが本当ではなかろうかとわたしには思われぬでもありません。蓋し、チェンバロにはひっくり返ってもできないことをやってこそ「ピアノのバッハ」には独自の存在価値があるのです。

フィッシャーには一九四八年ライヴの同曲異演(MUSIC & ARTS)があります。残念なことに一楽章が欠けているためスタジオ盤をさしおいてこちらを薦めるとまでは行きませんが、レコーディング嫌いの巨匠の常で感興の豊かさはスタジオ録音に数層倍し、この温かみと包容力たるや同じフィッシャーのSP録音でさえも冷たく感じられることでしょう。音質も一九四八年の放送録音としては悪くないもので、フィッシャーのタッチの美しさをよくとらえています。