バッハのクラヴィーア協奏曲第五番(続き)

意外なところでこの曲に執心を示していたのがヴァイオリニストのシゲティで、SP時代に二楽章の自編「アリオーソ」を吹込していましたし、後にはヴァイオリン版の全曲(G.シュレック編)を演奏しています(KING)。この曲は元来がヴァイオリン協奏曲をチェンバロのために編曲されたものらしいのでこの場合「復元」とするのが正確かもしれませんが、後世の他人が手がけたにしては上出来の仕事で、聴いていて違和感は殆どありません。

フィッシャーに比べても著しく情動的な表情と厳密な造形意志との拮抗がこの演奏を凡百の「歴史的演奏」から区別しています。実存的な生々しさとでも申しましょうか。あの不思議と心に迫るシゲティ・ヴィブラートで二楽章の名旋律を切々と歌われたら悪かろうはずがありませんが、ことに後者は、二度上の調に移されていることもあってか、ピンと張り詰めた心境美を感じさせます。 伴奏のミトロプーロスについては色々なことを書いてきましたが、今回はシゲティの魂の高ぶりと軌を一にしたドラマティックな演奏で、この指揮者では時々気になる響きの安っぽさが顔を出すこともなく、立派な仕事です。

実はスタジオ録音の別演奏(NAXOS)もあるのですが、これは生憎なことに伴奏がセルなんですよ。以前にも書きましたがこの指揮者とシゲティの相性たるやまさに最悪の一語に尽きます。ここでも無闇と重ったるい棒で、ひたすらシゲティの良さをスポイルするのみ。シゲティのためにはいっそ聴かないでもらいたいくらいです。

二楽章に関してはほかにもまだ編曲があります。コルトーによるピアノ独奏のための編曲は、トリルなど装飾的な要素を削ぎ落として旋律の高雅な美しさを浮かび上がらせた実にシンプルなものです。一九三七年盤はその単純さをコルトー自身持て余しているような感があり、ピアノ・ロールは(この曲に限らず)コルトーの微妙なタッチを全く伝えてくれません。勢い、一九五四年録音(※)こそがこの編曲にふさわしい演奏となります。原曲は「ラルゴ」の指定ですが、コルトーはそれにとらわれず(大方より三割増のテンポ)、さりげなく心からの祈りをうたいあげます。

マルセル・デュプレの演奏でオルガンのためのコラールを聴いたとき、 コルトーはただ「なんて美しいんだろう!」と嘆息したといいますが、同じ賛辞のことばがこの演奏にもふさわしいでしょう。『ときにはもっとも単純な言葉が、この上ない真実をあらわすことがある』(ベルナール・ガヴォティ)のです。

ケンプによる、これもピアノ独奏のための編曲(本人による一九三〇年録音、DANTE)は原曲に忠実なアレンジで、装飾音など、弾いている本人は気持ちよさそうですが、コルトーを知っている耳には邪魔っ気に感じられて仕方ありません。原曲通りのラルゴのテンポも、ピアノ独奏ではちょっと持たない(というか弛緩している)ような気がします。ケンプは本格派の作曲家でしたが、蓋し編曲家としてはコルトーの方がずっと気が利いています。


(※)……新星堂盤をはじめとして従来のレコード、CDでは一九五四年の録音とされていたこの演奏ですが、APR盤においては一九四八年録音とアナウンスされています。