ピアノでバッハを弾くということ

ブランデンブルク協奏曲第五番の独奏パートをピアノで弾くのは余程大変なことなのだなあと思い至ったのはカザルスのプラド時代の録音(CBS)を聴いてのことでした。ヴァイオリンのソロはシゲティ、フルートはアメリカにおけるフレンチ・スクールの大立者ジョン・ウンマー、ピアノはイストミンという顔ぶれで、シゲティは何といってもシゲティですし、ウンマーはふくよかな響きで朗々と歌う立派な笛(あえて云えばオケマンの通弊として今ひとつ華がありませんが……)で、合わせもの巧者として名高いだけのことはありイストミンのピアノも安心して聴くことができます。

しかしそれも一楽章のカデンツァまでのこと。これが一言でいえばただ弾いているだけというやつで、リズムとアクセントは鈍重で正確さを欠き、タッチは雑然かつコントロールが崩壊しているものだから速いパッセージの響きの混濁に至っては耳への拷問も同然です。

イストミンの演奏をそれほど数多く聴いたわけではありませんが決して悪くないピアニストだと思っていました(たとえばプラド音楽祭におけるブラームスのトリオ)。これを要するに、蓋しカデンツァの方が難しすぎるのです。

しかるに兎角技術に難癖をつけられがちなエトヴィン・フィッシャーコルトーがこのカデンツァをどれほどみごとにで弾きこなしていたかはすでに述べた通り。いま現在のわたしたちが通念するところの「テクニック」なる概念のあやうさを思わずにはいられません。

リストでも弾いているかのようにベートーヴェンブラームスをノーミスで弾くことだけが「テクニック」ではなかろうだなんて当たり前なことを今更云いたくはないのですが、少なくともひとつ、バッハに限らず元来クラヴサンのために書かれたラモーやクープランを少々ムリしてピアノで弾くことによって往年の巨匠がピアニズムの語法に付け加えていった技法というものがあるはずで――そもそもがピアニズムなるものは本質的にピアノという打楽器を弾いてそれが打楽器であることを忘れさせるといった類の厄介な逆説なのであり、ある種のヴァイオリン愛好家が嘲って云うように「巨匠が弾いても猫が踏んでもピアノは音が鳴る」だなんて単純なものではないのです――しかるにこの半世紀というものピアニストたちがチェンバロ奏者にそれら珠玉のレパートリーを無条件で払い下げてしまった結果その貴重な成果は失われ、それがあったことさえも忘れ去られつつあるのではなかろうかとわたしには思えてなりません。

もっとも、コルトー、フッシャーやシュナーベルたちのミスタッチが気になってしかたないという人が一方でKだのOだのIだのといったピアニストの演奏の平板さや暑苦しさに対しては不感無覚でありえるのだとしたら、十九世紀生まれの巨匠たちの美風が今となっては絶滅した恐竜みたようなものであることを思えばそれはむしろ幸せなことなのかもしれないとは思わないでもないです。