カルロ・ゼッキのブランデンブルク協奏曲第五番

とりあえずの締めくくりとして、とびきり上等なブランデンブルク協奏曲第五番の演奏を。

イタリア・ピアニズム史において、ブゾーニミケランジェリが必ずしもそれぞれに独立した、いってみれば突然変異的存在ではなかったことを証明するミッシング・リングのひとりがカルロ・ゼッキです(実際にブゾーニの門下生でもあります)。早くに腕を故障してソリストとしての活動は断念したのが惜しまれますが、全盛期は「腕が三本あるかと思う」ヴィルトゥオーゾであったと伝えられます。遺された数少ない録音の中にブランデンブルク協奏曲の第五番があることはせめてもの幸いと云えましょうか(CD: PEARL)。プレヴィターリ指揮EIAR響(後のRAI響のこと……でしたっけ)との共演です。

ゼッキがピアノを弾いているというだけでしみじみと有難いというのに、このレコードはジョコンダ・デ・ヴィートがヴァイオリンを弾いているという豪華絢爛さ。後年のHMV録音などと比較するとデ・ヴィートの独奏は少々おとなしく感じられますが、目蓋に紅のしたたるような艶やかさはすでにしてデ・ヴィート以外の何物でもありません。トゥッティに混ざって弾いていてもそれと指し示すことができる鮮やかさです。フルートのタッシナリは寡聞にしてこの録音でしか知らない奏者ですが、同名のタリアヴィーニの嫁さんの親兄弟ででもあるのでしょうか。

それにしてもゼッキのピアノのべらぼうな巧さよ。カラッと軽快なタッチはさながらイタリアの青空のごとし――と最初思わせて、実際のところこれだけ軽やかにピアノを操ることができるというのは余程のテクニックがなければ到底不可能事であり、イタリア人であれば誰でもこのように弾けるだなんて簡単なものではないことが段々と了解されます。カデンツァにいたっては、無論フィッシャーやコルトーも見事でしたがゼッキの指さばきの自在さ、余裕はさらにその上を行くものとしても過言ではありますまい。それでいて完璧主義のあまりの冷たさからは遠く、むしろイタリアの手工芸品に通じる洒落っ気や温もりを感じさせるところが秀逸です――その点、ブゾーニがバッハの大家であったことは云うまでもないでしょうがその解釈はむしろ厳密なものであったし、ミケランジェリはあまりバッハを弾くことがなかった(シャコンヌとイタリア協奏曲くらいしか録音がないのでは)ことを思えば、ゼッキのピアニズムの特別なかけがえのなさが殊更身にしみて感じられます。