アニー・フィッシャーのハ短調協奏曲

しばらく前のリリースになりますが、アニー・フィッシャーの映像集を視聴しています。とりあえずと思って、十八番だったらしいのにこれまで聴く機会のなかったベートーヴェンの第三協奏曲から聴きはじめたのですが、これがものすごい演奏で、心底驚愕し歓喜しました。疑うべくもなくこのピアニストのトップ・フォームであり、ハ短調協奏曲の最高の演奏のひとつです。

ドラティ指揮ハンガリー放送響の序奏はどことなく流している感じですが、ピアノが入ってくるとだんだんその熱気に負けじとばかり力がこもってゆくのがはっきりと聴き取られます(映像なのでそれがことさらに良くわかります)。オケと堂々と対峙して云々(それこそブラームスの協奏曲がらみで)とはしばしばいわれることですが、ここではフィッシャーの独奏がむしろ管弦楽を圧倒しているのです。演奏されたのは六十年代ということしか分かりませんが、まさしく全盛期の凄みとしかいいようのないものを感じさせます。強靭な指の織りなすタッチは明晰にして尋常ならぬ胆力がみなぎらんばかり、瞬間瞬間このピアニストの全エネルギーが放射される様にただただ圧倒されます。

リヒテルによれば、フィッシャーは普通だったら云いにくいようなことも率直にズバズバいってのけるのだけど、それがいちいち本当のことだからぐうの音も出ないし腹の立てようがなかったとのことですが、このベートーヴェンにはそのようなピアニストの人柄をまざまざと彷彿とさせるものがあります。直截にしてこの上なく雄渾、かけらほども迷いらしいものを感じさせません――それは単なる物理的なダイナミズムの問題ではなく、蓋し真実そのものの力強さなのです(一例をあげれば、フィナーレで運命音型のファンファーレに呼応するピアノの凄絶な気迫!)。

しかしフィッシャーの真価は意志的な力強さが自己目的化してしまわず、情感の豊かさと自然に結びついている(いわんや、乱暴な感じなどまったくありません)ところにこそ見出されるべきでしょう。わたしがことに深く感服したのは、二流どころのピアニストにかかるとただの甘いロマンスになりかねない二楽章です。二流どころならずとも、両端楽章とのコントラストに意を用いて静的なデリカシーが特に重視されがちなこの楽章ですが、フィッシャーの足取りはあくまで確信に満ちていて、そのように弾かれた冒頭のモノローグは凝集された深みをたたえています。そして力強い左手のトリル(*)に乗せて緊張から解き放たれる内面の広がりと雄大さ――ほんの一分の間に生起するこの深遠な精神の劇こそは、フィッシャーのベートーヴェンを他の誰とも違ったものとしているのです。

(*)……他の演奏と比較する限りではきわめて自由な演奏マナーかと思われますが、だとすれば何という創意の豊かさでしょう!