ハスキルのハ短調協奏曲

アニー・フィッシャーの演奏があまりにすばらしかったので、ほかのピアニストでもベートーヴェンの第三協奏曲を聴いてみたくなりました。

ハスキル/アンセルメ/スイス・ロマンド管(CLAVES)は、数多く遺された彼女のライヴ録音の最後のもの――死の三ヶ月前の録音――です。

夙に吉田秀和翁が指摘していたように、ハスキルハ短調協奏曲は若いベートーヴェンの客気と気迫を如実に伝えるものではないかもしれませんし、それどころかおなじハスキルの同曲異演と比較してもタッチの粒立ちやダイナミクスの幅において制限のあるこの演奏において、ピアニストの抱え込んだ孤独は以前にもましてそつそつと聴く者に迫ってきます。たとえば哀切この上ない訴え以外の何物でもない一楽章の第一主題――それが若い作曲家の奔放不羈な運命への挑戦以上に聴き手の胸を打つとしても、誰がそれを以てハスキルの罪と断ずることができるというのでしょう。

鍵盤とハンマーの介在を感じさせず、それを弾いている指のことさえも忘れさせる、こころがそのまま音になったかのように結晶しつくしたひびき。「ハスキルの瞬間」と呼ぶほかないそのようなうつくしさでこの演奏はいっぱいです。アンセルメのタクトはことさらにデリカシーを独奏者と競わず、かといってバランスを突き破ってしまうようなこともない達意の伴奏ぶりで、よい緊張感があって、この指揮者ならではの厳しい美が湛えられていました。

CD解説に収められた一葉の写真は、この演奏が終わったあとに撮影されたものでしょうか。ステージをとりまくあたたかな感動の波に取り残されたかのように立ちつくすハスキルの姿にわたしは慄然としました。それは、さながら現世と向こう側の世界の域に立つ幽鬼を思わせます――聴衆がそこで立ち会ったのは、蓋し最後の神秘の顕現だったのです。