ショパンのop.62-1のノクターン(承前)

他の演奏も聴いてみました。

○遠山慶子女史による全集録音(カメラータ・トウキョウ)

師匠のコルトーをして「あなたのショパンこそが本物だ」と云わしめた遠山女史のピアノは外側からあれこれ手を加えたような感じがせず、ひそやかな情感がそのまま音になっているかのような稀なる自然さ――再度コルトーの言葉を借りれば「孤独な音がする」のです。一音一音が繊細なニュアンスをつけられている――というか、ニュアンスの塊のよう。ハスキルノクターンを弾いていたらこんなだったかもしれません。

○シュテファン・アスケナーゼ(DGG)

これもいわゆる全集(ただし遺作の第二十一番は含まれていません)中の録音です。アスケナーゼの折り目正しく細部まで練り上げられた演奏は全編これため息というようなはかない息遣いに満たされており、晩年のショパンデカダンスを濃密に漂わせている点が凡百の端正な「だけの」ショパンとは一線を画しています。


この曲は意外といわゆる全集以外の録音に恵まれておらず、ノクターンを弾かせては右に出るものはないスタニスラフ・ネイガウスコルトーのレコードがないのはことに惜しまれますが、後期ショパンといえばこの人、ゲンリヒ・ネイガウスによる陰翳ただならぬ入魂の演奏が遺されています(DENON)。手中の玉を愛撫するかのような思いのこもった歌いまわしと起伏の豊かさはアラウやアスケナーゼよりさらに一世代ふた世代前のグランド・マナーの華というものですが、聴くにはちょっと覚悟が必要なくらい音質は劣悪です。

ホロヴィッツの最後の録音(CBS)は放埓な構成と流れの悪さがいくらか気になりますが、一生かけて磨き抜いたピアニシモの音色の澄みきった美しさと痛切な悲哀が胸を打ちます。だからこそ、ことさらに結尾のはかない諦観が心にしみ入るのです。