アニー・フィッシャーのショパン

アニー・フィッシャーはめったにショパンを弾かないピアニストだったといわれますが、モンサンジョンの『アート・オブ・ピアノ』をご覧になった方はエンド・クレジットで彼女の弾く生き生きとした子犬のワルツが流れていたことをご存知でしょう。昨年リリースされたライヴ映像集(DOREMI)では第一協奏曲を弾いてますし、後世がてっきりそう思い込んでいるほどショパンから縁遠かったわけではないのかも知れません。なにしろこのピアニストは録音(という判断材料)をあまり多く遺してはくれませなんだ――

それでも、スケルツォの三番があると知ったときは、こんなのも弾いていたんだ、というのが第一印象でした。一九五八年、おそらくラジオ用の放送録音です(BBC LEGENDS)。だけどこれが凄かった。ワルツやコンチェルトも良い演奏には違いありませんが、このスケルツォこそ、まさしくアニー・フィッシャーならではのショパンと云いたい無類の傑作です。

冒頭から尋常ならぬ迫力に圧倒されます。重厚な打鍵は腹にズシリと応え、強烈きわまる緊迫感は息をひそめて獲物を狙い定める猛獣のそれをも思い起こさせるでしょう。これにはリヒテルも三舎を避けようというものです(少なくともビクターの一九七七年録音程度のテンションでは到底太刀打ちできますまい)。特筆すべきはピアノのタッチのすばらしい表現力で、豪胆かつ密度の濃いフォルティシモから中間部の憂愁を歌いあげる深みのある音色まで、行くところ可ならざるはありません。生一本の気迫とこまやかな息遣いとが同居しているのもこのピアニストらしいです。

スケルツォの三番はショパンの作中でもとりわけベートーヴェン的と云われることの多い作品だけに、「名うてのベートーヴェン弾きだけのことはあり」と書いてしまいそうになります――しかしながら、ベートーヴェンの大家のショパン演奏にありがちな、音楽の骨格を確かにとらえてはいても指の隙間から「細部に宿る神」がこぼれ落ちてしまったかの観ある奇妙な虚ろさ(たとえばブゾーニやイーヴ・ナットがそうではなかったでしょうか)が彼女の演奏には毛頭感じられません。無論、アラウのようなピアニストは(先日取り上げた通り)きわめて巧みにショパンを弾きますが、彼の隅々まで充実した円熟味にかわって、精神の激しい白熱と飛躍とがフィッシャーにはありました。