ダヴィドヴィチのショパン

ダヴィドヴィチのショパンを聴きました。ブリリアントからリプリントされたバラード、即興曲、プレリュード集等の西側録音です(cf.→HMV)。

ダヴィドヴィチ自体、夫君シトコヴェツキーとのデュオ(※)くらいでしか聴いたことがないので予断はないつもりでしたが、バラードの一番を聴きはじめて約二分、佐藤泰一氏が『ロシア・ピアニズムの系譜』で「西側に移住して以降のダヴィドヴィチは……」と奥歯に何か挟まったような物言いをしてた理由がよく分かりました。ひとことで云って緊張感がないのです。

なるほどタッチは美しいし、表情豊かな弱音を生かしたゆったりとしたフレージングはピアニストの熟練ぶりを遺憾なくあらわしているでしょう。だけど音楽は流れっぱなしで構成感があいまい。テクニック的にも、特にプレリュードの十六番や二十四番のような曲では、左手の動きにキレというか立体感がないのがどうも気になります。バラードの二番や三番はけっこう聴かせてくれますが、一番四番のコーダはどう贔屓目で見ても劇的な飛躍や精神の昂揚といった要素からは縁遠いものとなっています。むしろ即興曲にこのピアニストならではの良さを感じることができるでしょう。一番や幻想即興曲中間部の優雅な歌わせ方は「ロシアのピアニストは野蛮でどうも」云々という一部フランコフィルの非難が不当きわまりないものであることの証左たりえます。

意外な拾い物はロンド・ア・ラ・クラコヴィアクでした。ショパンのこの手の、専ら名技性を誇示するために書かれたかの観ある作品を、ダヴィドヴィチはあくまで優婉に、豊かな情感をこめて弾いています。磨きぬかれたタッチの輝かしい美しさ、エレガントな歌いまわしといった彼女のピアニズムの美点が際立ち、作品の実際よりワンランク上に聴こえるような演奏です。

しかし、佐藤氏をして去年の雪いまは何処の嘆きを発せしめた五十年代のダヴィドヴィチがどれほどすばらしかったのか、ぜひこの耳で確かめてみたいのですが現在に至るまで全く復刻がなされていないのは一体どういうわけでしょうか。


(※)モーツァルトのK378のソナタ(AULOS)は、ピアノが遠慮しすぎでこれで以てダヴィドヴィチの実力をはかろうとしても途方に暮れるほかありません。云ってみれば、ハスキル=グリュミオーとシトコヴェツキー=ダヴィドヴィチの違いがあるのです――いわんやサラサーテをや。