デュオについて――マイナルディとゼッキ

わたしがエンリコ・マイナルディの名を知ったのは、ご多分に洩れず、フィッシャー・トリオのチェリストとしてでした。就中ブラームスの第一三重奏曲の緩徐楽章におけるチェロ独奏の心にしみ入るような歌心は他のいかなる演奏とも比較すべくもないような素晴らしさで、今回聴いたチェロ・ソナタには大いに期待がつのった次第です。ピアノのカルロ・ゼッキはマイナルディとは顔なじみで、先に復刻されたベートーヴェンの全集でも共演しているのは大方のご存知の通り。

良いところはいくらでもあるディスクです。わたしはマイナルディが好きですし、ゼッキのピアニストとしてのすばらしさもとくと承知しているつもりです――ですが、この演奏には正直なところ幾許かの物足りなさを覚えました。

というのも、ソリスト同士の共演ならではの丁丁発止とやりあうダイナミズムや緊張感がここには殆ど感じられないのです。それほどブラームスには馴染みがないのか何なのか、ゼッキがあまりにも唯々諾々とマイナルディの解釈に付き合っているため、このチェリストの豊かな歌が一転して「歌いっぱなし」に感じられてしまいます(特に第一ソナタにその弊が甚だしいように思いました)。

この演奏を聴いているわたしの胸に思い浮かんだのは、どうしてティボーではなくエネスコとデュオを組まないのか、と訊ねられたコルトーの答えです。


≪……エネスコの音楽的な考え方は、とても私に近いのですが、その点こそが問題なのです。結婚においても音楽のデュオにおいても、自分の『分身』なるものを求めてはいけないと思います。私とティボーは、まるで違いました。彼は、軽やかでかつ陽気で、楽しそうにしており、軽薄なところもありました。このような理由で、私は、自分たちを相互に補いあう存在だとみなしているのです。……≫

思うに、マイナルディとゼッキは音楽的に近しすぎるのではないでしょうか。ティボー=コルトー組にあってマイナルディ=ゼッキになかったものがあるとしたら、それは「批評性」です――

フィッシャー・トリオのブラームスのすばらしさも、究極的には他ならぬフィッシャーの統率力によるのであって、ふたりの共演者の持ち味を存分に生かしつつ自らのピアノで補うべきを補い、音楽の要求するたしかな構成のなかに――彼らをただ締め付けるのではなく――暖かく抱擁するさまは魔術としかいいようのない見事さです。


(引用は、ジャン・リュック・タンゴー『コルトー ティボー カザルス 夢のトリオの軌跡』より)