ポール・パレーのルーセル

ポール・パレーのルーセルを聴きました。先日タワー・レコードから復刻された≪ポール・パレーの芸術≫第四集に収録された、へ調の組曲と『くもの饗宴』組曲の二曲です。

断然すばらしいのは、後者の『くもの饗宴』でした。響きのパレットがとにかく多彩で、オーケストラ・ドライヴも冴えまくっており、印象は鮮烈の極みです。実をいえばこの指揮者をはじめて聴いたのはショーソン交響曲で、これが「雰囲気的でない」というよりか雰囲気ゼロといった方が正確なように感じられる演奏だったものだからこれまで敬遠していたのですが、この演奏を聴いて端倪すべからざる実力に感じ入った次第です。

一方で、へ調の組曲は、普段聴いているチェリビダッケの演奏と比較してしまって、あまり愉しめなかったというのが正直なところでした。一聴して明らかなのはダイナミクスの幅の狭さで、チェリ様と比較すればメゾ・フォルテからフォルテの間だけで音楽しているようなものです(特に第一楽章)。スケール感という面からも遜色があるでしょうし、それ以上に、チェリビダッケの演奏においてわたしを震撼させた強烈な昂揚をここには見出すことができません。パレーのキレの良いテンポ運びは音楽に快い推進性を与えていますが、呪術的な反復を通じてリズムそれ自体に力強く語らせしめているのはチェリの方でしょう。

ルーセルの音楽には渋すぎるというかとっつきにくい部分があるように思いますが、あまり馴染みのない聴き手にとって親しみやすいのは恐らくパレーのほうです。しかしながら、これはチェリの演奏がルーセルの刷り込みになっている人間がいうことなので話半分に聞いてもらわなくてはならないところですけど、ルーセルのとっつきにくさが実はこの作曲家の魅惑の本質に直結しているのだということを体感させてくれるのは、パレーではなく、チェリビダッケなのです。

「明確で古典的な骨格といい、ひたむきに前進する強靭なリズム感といい、ルーセル管弦楽曲ほどパレーの資質に似合った音楽はちょっと思いあたらない」とはCD解説子ののたもうところですが、この指揮者はルーセルの音楽性にそれほどは近しさを感じていなかったような気がわたしにはしないでもありません(とすればパレーによるルーセル録音がこの二曲しか残っていないことにも納得が行くというもの)。へ調の組曲より『くもの饗宴』の方がすぐれた成果となっているのは、思うに、この初期作品においては未だインプレッショニスムの影響が色濃く漂っており、抽象志向の強い後期の楽曲に対して巧みな描写性が備わっているからではないでしょうか。全曲の中で「蜉蝣の羽化」のように突出して(後の)ルーセル臭が強い部分だけがやや色褪せて響くようにわたしには感じられます。