コルトーの初出録音(二)

(承前)

ショパンのピアノ協奏曲では第一番の方が歴然と高いポピュラリティーを獲得していて、それはショパン・コンクールの主だった勝者(たとえばアルヘリチやブーニン)が大抵本選で第一を選んで弾いていることからも窺われますが、なかには第二を贔屓してもっぱらこちらを弾いたというピアニストがいます。マルグリット・ロンやハスキル、そしてわがコルトーがそうです。*1

コルトーに至ってはショパンの非力な管弦楽法に手を加える改訂作業まで手掛けていて、その愛着の深さにはただならないものがあります。「コルトー版」の初演は一九三四年、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルとの共演で初演されました。この曲の世界初録音はロン(1929)に譲り、ルービンシュタイン(1931)にも先を越されたコルトーですが、改訂版初演の翌年、満を持してバルビローリとのレコーディングを果たします――これが今までわたしたちの聴いてきたHMV録音です。

今回のライヴ録音の管弦楽パートも当然のように編曲版が使用されています。ところどころ、こんなことやってたっけな、と思うような個所がありましたが、実際はメンゲルベルクがスコアをいじっているわけではなく、バルビローリが控えめに鳴らしていた部分が強調されているにすぎません(少なくともわたしが確認した限りでは)。オケはよく鳴っていますが、わたしとしてはそれをコルトーの効果的な再オーケストレーションの手柄に数えたいと思います。

メンゲルベルクの棒については、先に挙げたバランスの不満を抱きこそすれ、快哉を叫びたくなるようなものではありませなんだ――この指揮者特有の「型」、たとえば止まりそうなくらいの大仰なリタルダントをかけると次の句の頭からアッチェレランドするといった類のパターンは聴いていて「ああ、またか」と見当がついてしまう典型的マンネリズムもいいところで、特にこの曲の場合、フレージングのしなやかさや音楽の流れを損なうマイナスが大きいように思います。コルトーがルバートをかけまくっても、そのカンティレーナは滔々として途絶えることを知らないのとはえらい違い。

この演奏の音源がどのような氏素性のものかは詳らかにしませんが、当時ドイツで実用化されていたテープ録音と比較しても音の鮮度、生々しさはそう劣っているとは感じませんし、ダイナミクス・レンジも必要十分な広がりを有しています。しかるに問題となるのが保存状態の悪さで、サーフェイス・ノイズは盛大ですし、かてて加えて音飛びがそこかしこにあります。「コルトーの音」を捉えていることにかけてはスタジオ録音を凌駕している面もあるのですが、普通に聴く分にはちょっと不満がある音質です。

――というわけで、ふたつの同曲異演を比較すれば、二楽章が比類を絶したすばらしさで、総体的にも瑕の少ないスタジオ録音と、特に両端楽章において実演的感興が豊かな一方、いくつかの問題を有するライヴ録音ということになるかと思います。どちらか一つを取らなくては、というのであれば前者をわたしは選びます(この二楽章こそは、コルトーの数あるショパン録音におけるクライマックスのひとつでしょう)が、今回の新発見には大いに楽しませてもらいました。こうなるともう少し早い時期のライヴ録音、Farhan Malik氏のディスコグラフィーにも記載されている一九三六年のシューマンの協奏曲などが、たとえ断片でも、どんな劣悪な音質でもかまわないから、何とかして聴けないものか――と思わずにはいられません。

*1:リヒテルも第二しか弾かなかったピアニストですが、この人の場合「第一はネイガウスが弾いているから」というのが理由でしょう。