コルトーのテクニックと「まことの花」(六)

十九世紀生まれの巨匠たちは、自分のレコードを聴いて芸風を変えていったということがいわれます。宇野功芳氏がワルターについてそれをよく指摘していますが、ここではエーリヒ・クライバーを例にあげましょう。

デッカ録音のクライバーしか知らない人が、一九二三年に録音された『美しく青きドナウ』――これは彼にとっての初レコーディングにあたります――を聴いたらさぞや驚くことでしょう(かく云うわたしがそうでした)。テンポはうねうねと好き放題に伸び縮みし、たっぷりとかけられたポルタメントもあいまって耽美的、陶酔的なることこの上なしという演奏。黄金時代のベルリンの大立者にして『ヴォツェック』の初演者、ノイエ・ザッハリヒカイトの流れにも近いこの指揮者には、元来かくも纏綿たる「十九世紀的」な側面があったのです。*1

しかし早くも数年後、クライバーの指揮は面目を一新し、われわれにも馴染み深い、あの端正でいてどこか粋な匂いのするスタイルが確立されたことが、同じarchiphon盤の併録曲を聴くと判然とするでしょう(中では颯爽とした『ジプシー男爵』など出色かと)。これはわたくし思うに、レコードで自分の演奏を聴くことによって、生得のロマンティックな音楽性における(多かれ少なかれ)無自覚的な部分を厳しく見つめなおし、鍛え上げた成果なのです――個人的には、十九世紀風のクライバーにもひじょうな魅力を感じます(このドナウは確か近衛秀麿のお気に入りのレコードでした)が、それを以てよしとせず、客観的な目で自らの音楽をより一層精錬させていった大クライバーの態度は偉とするに足るでしょう。

ここで話はコルトーに戻りますが、このピアニストのレコードは、たとえ同じ曲を弾いていても演奏ごとの変化が大きいということが良くいわれます。蓋し指揮者のフルトヴェングラーと双璧でしょう。

しかるにその「変化」は気分的なもの、そういって悪ければ即興性のあらわれ、として語られることがこれまでは多かったように思います。さらに酷いのになると、弾けているか、弾けていないか、だなどと。これは、前々回まで話題にしてきたショパン演奏についても例外ではありません。あらえびすや野村光一にとっての「変化」のパラメーターは「衰え」もしくは「円熟」なる、あやふやな、聴く者次第によってどうとでも取れるようなものでした――しかし本当にそれだけの問題なのか。虚心坦懐に聴いてみたいと思います。

*1:ERICH KLEIBER DIRIGIERT WALZER UND OUVERTUEREN 1923-1933 (archiphon, ARC-102)