ベートーヴェン・マター(承前)

しかしながら、コルトーが実際にベートーヴェンのピアノ・ソナタを録音していたというのであれば、どういうわけでテスタメントから(ほぼ)全集を復刻する予定が頓挫し、「そのかわりに」ソニーから『マスタークラス』がリリースされる運びとなったのか、という疑問がでてきます(もちろん、わたしに伝わってきた「噂」がそもそも信憑性に乏しかっただけかもしれませんが)。

――ここからは完全にわたしの憶測、妄想です。そのつもりでお読みください。

話のはじめにテスタメントの名前があがったのは、EMIの蔵出し音源を復刻する計画があったことをうかがわせます――というのも、クレンペラーが指揮したロ短調ミサ曲の合唱部分のみのトルソだの、ペトルーシュカだのをリリースしていることからも明らかなように、テスタメントはEMIのアーカイヴへのアクセス能力がきわめて高いレーベルだからです。

しかるに何らかの事情で方針が転換されます――EMIからマスターテープを借り出すかわりに、関係者が保管するテスト・プレス(もしくはダビングしたテープ)を音源として復刻することに。

そういうこと自体はよくある話でしょう。一例をあげれば、APRから出たコルトーの『前奏曲、アリアと終曲』再録音も、マルコム・ビンズ秘蔵のテスト・プレスを板起こししたものでしたし、たしかフラグスタートのコヴェント・ガーデンのトリスタンも、誰かしらのもとに送られたテスト盤が音源だったはず。

わたしの考えでは、ここに到って「マンズハートの勘違い」が問題となったのではないでしょうか。たしかジャン・コルトーか誰かのところに全曲録音のコピーがあったはずだ、あれを使えばいいのではないか、と――

これを要するに、マンズハートは「HMV録音のコピー」と「マスタークラスのテープ音源」を取り違えたのであって、彼が「HMVのレコーディング・セッション」と「トゥーズリ氏によるマスタークラスの記録」を混同していたとは限らない、とわたしは考えたいのです。