阿佐ヶ谷発、黒門町行き
青柳いづみこ女史の『ピアニストが見たピアニスト 名演奏家の秘密とは』は、以前リヒテルとミケランジェリの項だけ卒読したことがあるのですが、今回中公文庫入りしたのを機に全巻を通読しました。非常に興味深かったです。とりわけてミケランジェリに関する考察の水際立った「音楽探偵」ぶりにはあらためて感嘆せずにはいられませんでした。
ひとつ意外だったのは、「あの」ハイドシェックのクセの強い表現が、実は楽曲の理論的な分析に基づいた、一から十まで理詰めなものであり、その場その場の感興に左右されたやりたい放題ではないらしい――ということです。そんなこととは思いもよりませんでした。
……だけど、そのわりにはハイドシェックの演奏ってあまり説得力が感じられない、と思うのはわたし一人だけではありますまい。
宇和島のテンペストにギョッと肝を冷やした遠い日の思い出(トラウマといったらさすがに大げさでしょうか ^^;)は今なおけっこう生々しかったりしますし、あらためて手許にある仏EMIのラリッシム・シリーズ二枚組*1を聴いてみましたが、フォーレを除いて、良い印象は受けませなんだ。
これは一体どういうわけか――だとしたら、理論って一体何なんでしょう。
もちろん、自分がわからないからといって音楽理論を頭から否定しようだなんて気は毛頭ありません。チェリビダッケと現象学とは切っても切り離せませんし、フルトヴェングラーが峻厳な音楽理論家のハインリヒ・シェンカーの教えを親しく請うていたことは誰もが知るとおりです。
しかしながら、そのフルトヴェングラーが一方では、『……シェンカーはここで絶対的なものへの衝動に走りすぎたのではないかと問わざるをえない』(『音と言葉』)という述懐からも明らかなように、極度な抽象論とは一線を画していたことは留意するに足るでしょう。
思うのですが、音楽には良い音楽と悪い音楽しかなくて、良い悪いには理屈なんか何の関係もないのです。むしろ、「正しい」音楽をやろうとすればするほど、良い音楽から遠ざかってしまうというジレンマはままある話――その辺りが、つまるところフルトヴェングラーとハイドシェックとの分かれ道になったのでは、という気がわたしにはしました。
これは余談ですが、天上の作曲家たちも、じぶんの作品がアナリーゼされるのを聞いたら、『船徳』の親方じゃあないけど、あんがいと「そうなのか、――ちっとも知らなかった!」なんて云ったりするんじゃないかしらん……!?
(余談の余談)
『音と言葉』にはこんな言葉もありました。
……事実シェンカーが偉大な音楽家の傑作を通して追求していた問題は、人生のあらゆる領域に見られる切実な問題であったのだ。
ハイドシェックのアナリーゼにそこまでの射程距離があるのでしょうか……!?