キリル・ゲルシュタイン/デュトワのショスタコーヴィチ

これも昨年末のN響定期で演奏されたショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第二番を視聴しました。ソリストはキリル・ゲルシュタインという初めてその名を目にするひとです。まだ三十代の若いピアニストですけど額から頭頂部にかけて天才の刻印が……(これは余談)

わたしはこの曲を作曲家の自作自演でしか聴いたことがないこともあって、第一印象は「プロのピアニストが弾いたらこうなるんだあ」というものでした(ニトログリセリンを積んで爆走するボロ車のようにデンジャラスにしてスリリングな自作自演も、あれはあれで唯一無二の面白さがあるのですが……)。*1

芯まで鳴りきったピアノのタッチ。繰り出されるリズムの大地にどっしりと根をおろしたような安定感。グローブみたいに大きな、恵まれた手はやすやすと和音をつかみ、低音域で和音の塊がガシガシと動くようなところでの厚みと迫力には有無をいわさぬものがあります。この曲がかくもヴィルトゥオジックに響くとは想像だにしませなんだ。

また、二楽章がこのピアニストの手にかかるとラフマニノフのように甘美にうたいあげられることにもビックリです(ただしやるせなさは控えめ)――この、旋律を情感豊かに歌わせるレガートのテクニックこそ、ショスタコーヴィチでは背伸びしてもおっつきそうにない本業ピアニストならではの技というものでしょう。全体に、デュトワの手馴れた棒さばきともあいまって、カラッと洗練された響きで清新な音楽が作り上げられていました。

こんなに弾けるピアニストがまだまだ世界にはいるんだなあと感心しました(この人のプロコフィエフラフマニノフも聴いてみたい!)し、こういう曲だと思えばとても愉しく聴けますが、どーしてこういう曲をショスタコーヴィチは書いたんだろう、という疑問は何となく残ります。ヴァイオリンやチェロのためにはあんなにヘヴィーな協奏曲が書かれたのに、この演奏が描き出すショスタコーヴィチ像は、一瞬たりとも仮面を外すことなく、コメディア・デラルテのから騒ぎを演じとおしているかのようです。ホンネが見えないだけに何を考えているのか見当もつきません――と、こういうことで不安になるのはやっぱり『証言』世代のアナクロニスムなんでしょうかね(^^;

*1:ショスタコーヴィチソフロニツキーやユーディナと同門ですからひとかどのピアノ弾きのはずですが、五十代になって遺された録音を聴く限り、同じ作曲家のブリテンやフランセに比べて腕はかなり落ちます。