バルビローリ・フリオーソ

思うに、バルビローリにはふたつの顔があります。先日触れた≪マイスタージンガー≫のように、さながら温雅なイギリス紳士を絵に描いたかのごとき演奏がある一方で、チャイコフスキーの第五交響曲では、何があったのかと思うような荒れ狂いっぷりを見せていました(とりわけフィナーレが凄まじい)。一説に曰く、後者のタイプは一時期EMIを離れてパイにレコーディングした演奏に顕著なものだとかいいますが、ともあれ、なかなか一筋縄では行かない御仁です。

≪名歌手≫とカップリングされているエニグマ変奏曲とマ・メール・ロワも件のパイ録音で、とくに前者では≪狂乱のバルビローリ≫が顔を出しています(たとえば第七変奏のプレスト)。しかしながら、バルビローリのバルビローリたる所以は、ときに激情に身をまかすことこそあれ、片時たりとも歌心を忘れてはいないところにあるでしょう。ニムロッドの心にしみわたるようなカンタービレはいわずもがな、硬軟取りまぜた表現のゆたかな起伏が長大な変奏曲を聴き飽きさせないのがありがたいです。

ラヴェルは、オリジナルの組曲版による演奏で、アンゲルブレシュトやアンセルメが指揮している≪前奏曲≫を欠きます(ちょっと残念……チェリ様もそうなんですがね)。ロンドン響などと比べればハレ管のウインド・セクションはお世辞にも上手だとはいえませんが、それがかえって歌いまわしの表情ゆたかさにつながっています。チェリビダッケ/ロンドン響のライヴの、触ったら壊れてしまいそうなガラス細工を思わせる繊細さに対して、ここでは伸びやかな温もりが感じられて、これはそれぞれに良さを認めるのが当を得ているでしょう。

ただ、≪パゴダの女王≫の最後で激しく盛り上がって鳴り物をジャンジャンいわせるのにはビックリ。これって、バルビローリが感じるところのオリエンタリズムの反映なのかしらん……フィナーレの最後も、ここまでやってしまうと『壮麗』を通り越してちとやかましすぎるのが惜しい。