せきあえぬ血涙

広上淳一指揮のN響プロコフィエフの第七交響曲を視聴しました。

広上氏の指揮姿をみるのはこれがはじめてですが、最初は「コマ落ちしてるんじゃないか」と思いましたね、いや本当に。チャップリンバスター・キートンサイレント映画を見ているような錯覚さえ覚えるこのギクシャクっぷりはショルティも真っ青というもの。ユーリー・シモノフが一部で「踊るみのもんた」と呼ばれていますが、わたしには氏がだんだん高見盛に見えてきて仕方がなかったです。

しかし、こういうガクガクした棒だと音楽がきちんと流れるのかいな、と余計な心配をしましたがそんなことはありませなんだ。トーン・プロダクションのバランスがよく、プロコフィエフの乾いた叙情がうまく生かされています。欲をいえば、フィナーレで一楽章の第二主題が回帰する場面など、ひびきがもっと豊かに広がる感覚があってもいいかな、と思わぬでもないところですが、まずは明晰かつ流麗、繊細な手触りの音楽で、いいものを聴かせてもらったという満足感があります。

指揮台の広上氏はゴキゲンで、三楽章が終わると満面の笑みを浮かべて親指をぐっと突きたて(たしかに良かった)、フィナーレはノリノリ――というか、指揮姿を見ているかぎり「いちびってるなあ」と微苦笑を禁じ得ません。しまいにゃ尻振りダンスが飛び出します……ま、チェリ様の色気には程遠いかな(^^;

わたしがこの曲を聴き覚えた学生時分は、哀感ゆたかな一楽章に比して後続楽章がパッとしないように思われて、この曲があまり演奏されない理由も何となく分かるような気になっていたのですが、改めて聴くと、とくに中間楽章は、たとえば≪ロミオとジュリエット≫の一場面であってもおかしくない水準の音楽だと思います(そうそう、忘れるところでしたが、これはフィナーレのコーダがにぎやかな改訂版による演奏でした)。

手許にあったニコライ・マルコ/フィルハーモニア管の録音を聴くと、おそらく作曲家の病と倦怠との反映であろうほの暗い翳が音楽を蔽っている(とりわけ一楽章)のですが、広上氏の棒にはそのようなところはあまり感じられません。これはこれで良いし、こういう演奏を通じてこそ、この曲も再評価の目が出てくるのではないかしらん。






指揮中に、鬢のあたりをなでつけるしぐさは、アレ、まだ生えてた頃のクセなんでしょうか……(涙)