マ・メール・ロワ(承前)

ここの続きと思ってください)

何のかのといって、オリジナルの組曲版によるチェリビダッケ/ロンドン響のライヴこそはわたしにとって至上のマ・メール・ロワです。先師のラヴェルはいずれ劣らぬ名演揃いですが、なかでもこの演奏は、フランス国立放送管を振ったラ・ヴァルスやミュンヘン・フィルとのクープランの墓とベストを争うものでしょう。

チェリ様とは結局のところそれほど相性が良くなかったフシのあるロンドン響ですが(ミュンヘン・フィルと比較して自発性に乏しいのです)、ここでは、指揮者に厳しくい追い込まれてあと一歩のところで踏みとどまっている、ちょっと触れたら全てが崩れおちてしまいかねない危うさが、精緻きわまるひびきの背後に潜んでおり、怪我の功名(?)的聴き物となっています。聴く者をも呪縛するかのような息詰まる緊迫感。あまりにも微妙で繊細なバランスの上に成立した、これはヴァレリーのいうところの「数学的アヘン」です。

圧巻は≪妖精の園≫。チェリ様ならではの、夏の夜明けのように壮麗なクレッシェンドに心が震えます。

(スイス・イタリア語放送管を指揮した映像についてはこちら

マデルナ/南西ドイツ放送響(ARKADIA)もオリジナルの組曲版による演奏。ロスバウトのオケからこのような色彩感を引き出していることには感心しましたが、歌いまわしに含みがなく、聴いていてどうにも夢見ごこちには遠いというのが正直なところ。こういうの聴くと、ああなるほど、こりゃ確かにシェルヘンの弟子らしいわ、と思いますね。

(マデルナよか余程まっとうなバルビローリ/ハレ管の演奏についてはこちら

アンセルメ版の決定的名演は、アンゲルブレシュト/フランス国立放送管のデュクレテ・トムソン録音でしょう。この大家の棒は、聴く者に甘く訴えかける媚びもなければ、繚乱たる色彩の饗宴からも縁遠いですが、雰囲気的な表現によりかかることなく凛然たる音楽から、真に高貴な香りが馥郁と漂います。十八番は何といってもドビュッシーフォーレですが、ラヴェルもそれに優るとも劣らずすばらしい出来。神経質なところがまるでなく、それでいて大雑把な感じは与えません。まさしく絶妙。

これは以前も書いたことですが、CD初出と思われるWING盤がなかなかの名復刻で、これと比べてしまうとTESTAMENT盤の曇りがかった音質は到底褒められたものじゃありません。わたしも後者しか知らなかったら、こんなもんかと満足していたかもしれませんが……フルトヴェングラーの復刻が出るたび、同じ演奏のCDを十枚も二十枚も買い集める方々の気持ちが、少しだけ分かったような気がします。

アンセルメにはモノとステレオとふたつの正規録音があります。オケはいつものスイス・ロマンド管。耳が良いひとだからそれが響きの繊細さにつながっていて、高い水準を示していますが、何をさしおいてもまずアンセルメ、とまでは思いません(ただし、わたしにオーディオの趣味があったら、また感じ方が違ってくるかもしれない)。

忌憚なく申し上げれば、サン=サーンスのオルガン付きやショーソン交響曲を聴いている分にはアンセルメは最高の指揮者のひとりだと思うのですが、チェリ様も取り上げている曲を指揮しているときはあまりありがたみを感じません。

フレイタス=ブランコの演奏は手兵のポルトガル国立響を指揮した一九五七年のライヴ録音で、残念ながら棒の衰えを感じさせます。楽器のナマの音がしてしまうのです。オケの巧拙の問題もないとはいえないでしょうが、ほんの四年前にシャンゼリゼ管を振ったデュクレテ・トムソン盤のおもかげはありません。≪妖精の園≫だけが、かすかに上手い。

バレエ版の名演奏といえばモントゥー/ロンドン響(PHILIPS)に止めをさします。一九六四年、モントゥー死の年の記録ですが、九十前の老翁の棒とは信じられないくらい音楽はみずみずしく、ロンドン響も生き生きとそれに応えています。豊かな慈愛と微笑とに満たされた神品です。

プレヴィン/ロンドン響(DGG)も良い演奏ですが、モントゥーと比べてしまいますから、この指揮者だったらウィーン・フィルとの顔合わせで聴きたかったような気が……ハイ、贅沢とは承知の上。