古い手帳から

(ほめるところがないものについてどうこう云うのは唇さむき心地するものですが、ネタが切れたら仕方がない、以前書き捨てたものを……)

先日BSで諏訪内晶子とニコラ・アンゲリッシュのデュオ・リサイタルが放送されました。曲目は、モーツァルトのK454、ドビュッシーソナタブラームスの第三ソナタ、等々。

ところどころつまみ食い(だって、十分以上続けて聴く気がしないんだもの……)した感想ですが、まず気になったのは、それがモーツァルトであれドビュッシーであれ、はたまたブラームスであっても、まったく同じ調子で弾かれていることです。これがたとえばリヒテルのような音楽家であったなら、モーツァルトドビュッシーでは奏法からしてすっかり変えてきて、それぞれにふさわしいタッチで演奏するところを、スワナイ・トーン(と呼ぶほど大層なものとも思えませんが)の一本槍。これを潔いと見るか、様式感に対する理解が欠落していると見るかは人それぞれでしょうが、わたしの中では答えはすでに出ています。

これは、何もモーツァルトはピリオド奏法でやるべきだと云うのではありません(内心、ンなもんクソ食らえと思ってるクチですし)。それ以前の問題なのです――むしろ、様式感がない人こそ、楽器さえ変えればそれなりの音が出るピリオド・アプローチに転向した方がいいという説もあるとかないとか。

そしてもうひとつ、特にドビュッシーを聴いていて感じたのが、女史の驚くべき融通の利かなさです。≪解釈≫という下絵を引いて、その輪郭線を決してはみ出ないように決められた色で塗りつぶしてゆくという演奏。しかるべきヴァイオリニストと彼女とでは、いってみれば絵を描いているのと塗り絵をしているのとくらい違いがあります。

仮に、仮にですよ、≪解釈≫なるものがなされていたとしても――そこからして疑わしいとわたしは感じるのですが――それはあくまで下絵でしかないわけで、そこから肉付けしてゆき、「音」を音楽にまで高めるべきところを、すでに引いてある輪郭線のなかを決められた色できれいに塗りつぶしておしまい、というのでは、創意工夫のソの字もありゃしないというもんです。

ピアノのアンゲリッシュが、自由気ままなようでいて的確に「気分」の出ている面白い伴奏をしているのに、それにちっとも反応らしい反応を示すことのないヴァイオリンの無為無策ぶりはことさらに際立っていました。人間と人間がいっしょに演奏してるんだから、片方が何か仕掛けてきたら「そう来たか、じゃあこう行ってみよう」というレスポンスがあって丁丁発止するのが天然自然の理とばかりわたしは思っていたのですが、少なくとも女史には当てはまらないようですね。

彼女、耳が聞こえるのか聞こえないのか、からしてあやしまれます。