アンセルメのベルク

アンセルメといえば、数十年来の親友ストラヴィンスキーが十二音で書き出したからといって大人気なく絶交してしまうくらいのアンチ・ドデカフォニストとして知られていますが、シェーンベルク門下のベルクは例外的にお眼鏡に適ったと見えて、いくつかの録音が遺されています。

アンセルメのベルクの特長は、まさにこの指揮者が十二音嫌いであった点にこそ由来するように思います。というのもそこでは、アンセルメにとってのベルクの「とっかかり」――すなわち、これが無調で書かれているにもかかわらず、シェーンベルクだったら見向きもしなかったところを取り上げてみる気にさせた、ベルクの音楽に特有の要素――が濃密に浮かび上がっているからです(そして、それを聴こうというのでなければ、ベルクの複雑なスコアの再現に付き合うことに何の意味があるというか、とわたしなどは思います)。

いまや音楽家アンセルメのようにガチガチの「真実の道」――すなわち調性音楽の信奉者は少数派に属するのでしょうが、聴き手の方では、ドデカフォニー以降の音楽にあまり馴染みがないという人がまだ多いのではないかと思います。少なくともわたしにとっては、アンセルメのベルクに対する視点はきわめて親しみの持てるものでした。現代音楽プロパーの演奏家たちの手にかかると得てして味も素っ気もなくなりがちな無調音楽の主題だか動機だかが、アンセルメの棒にかかると実によく歌い、リズムも生き生きと躍動していることは実に驚くべきです。

アンセルメのベルクには、この作曲家としばしば結び付けられる「爛熟」だの「頽廃美」だのといった要素はそれほど感じられません。アンセルメの明晰なスタイルが曖昧なものを排しているからでしょうか――しかしながら、世間一般のベルクだって実を云えば爛熟してもいなければ頽廃的でもなく、単に無機的であるにすぎない演奏が大半なのですから、この一事を以てアンセルメを斥けるわけには行きますまい。

(CASCAVELLE, VEL 2003)は丸々一枚ベルクというCDです。いずれも手兵スイス・ロマンド管との放送録音で、彼らコンビが常々からこの作曲家に取り組んでいたことがうかがわれるでしょう。

ヴァイオリン協奏曲はメニューインとの共演。一九六四年ライヴで、ヴァイオリニスト本人の回想によるとこの曲を弾くのはそのときが初めてだったとか。

ことに二楽章がすばらしく、バッハのコラールが引用される後半からはアンセルメのタクトがいよいよ冴えわたり、メニューインの独奏もいつしか管弦楽と溶け合うように一体化して、絶美の音楽が奏でられます。この指揮者はわたしたちが想像する以上にバッハが好きだったのかもしれず(いや、「数学者」ならばそれも当然のことというべきか)、管弦楽組曲などが先日CD化されているところですが、ここではベルクの引用したコラール主題をいとも愛情深く、あたたかな響きで扱っています。

独奏に関してはシゲティが好きなんですけど、ミトロプーロスの指揮が今ひとつ単調(要は「現代音楽に強い指揮者」として平均点の出来)で、二楽章以降の感銘度はメニューイン/アンセルメに一歩及ばず、といったところです。

ヴォツェックの三つの断章ではシュザンヌ・ダンコが独唱を務めています。モーツァルトやフランス歌曲の印象が強い歌手ですが、こんなのも歌ってたんですね。ふくよかな情感の匂いたつ子守唄といい、聖書の場の悲痛な叫びと哀艶きわまる悔悟といい、「街の女」にしてはちょっとお上品かもしれませんが、この上なく魅力的なマリーです(他の誰よりも――と、少なくともわたしはそう思っています)。アンセルメの指揮はきわめて劇的で喚起力に富み、意外とオーケストラ・ピットにもよく入っていたと伝えられるこのコンビの実力が遺憾なく発揮されています――ヴォツェックやルルの全曲も録音が残っていないものか、と思わずにはいられません。

管弦楽のための三つの小品は室内協奏曲と並んでベルクの作品中もっとも晦渋な印象の強い曲ですが、これまで聴いたことのあるいくつかの演奏における取り付く島もないという印象は受けません。指揮者が自ら指摘しているところの、容易に追うことはできないとしても「細部まで常に論理的」な調的処理がたしかに把握されているからでしょうか。

これら三曲の演奏において、アンセルメというと誰もが思い起こすであろう稠密な解析力はもちろん存分に発揮されているのですが、そこに魅力的なプラス・アルファがあるのがアンセルメのベルクを特別なものとしています。