ショパンのバラード第四番
- ギンズブルグ(一九四九年、ARLECCHINO)
コルトーは九分半くらいで弾いているこの曲ですが、ギンズブルグの演奏は十二分オーバーと、SPレコード一面分余計にかかっている勘定(ただし、ロシアのピアニストは十一分くらいの演奏が多いです)。弾こうと思えばいくらでもバリっと弾けるはずのひとですが、繊細なタッチで抑えに抑えて――最後までそのまま行ってしまった、という感じで、良くも悪くも、ヤマのない演奏です。
ギンズブルグと同門のフェインベルグですが演奏時間は十分少々。スクリャービンの名手として知られるだけにショパンも得意としていたのでは――と思いきや、CDで聴くことができるのはこのバラード一曲くらいなものだったりします(※某巨大動画サイトには作品五十九のマズルカやタランテラなどあり)。
飄々としたアゴーギグはいつものフェインベルグですが、テンポのモジュレーションがいささか気分的で、流れに一貫したものが感じられません。バッハやスクリャービンとは勝手が違ったのでは、とわたしの眼にはうつります。
これについては、以前、ソフロニツキーにしては……と書きましたが、あらためて聴いてみました。フレージングはよく歌っているし、指のコンディションもまず良好で、コーダなどしっかり決めています。迫力にだって事欠きません――それでも、音楽があまりにも流れすぎで、劇的な緊張感やコントラストに乏しい憾みがあるのです。
- ホフマン(一九三八年ライヴ、MARSTON)
いわゆるカシミール・ライヴです。ホフマンの特質は高度な散文性にあるとは吉田秀和翁の指摘ですが、ここでのフレージングたるや、散文的を通り越して味もそっけもありません。中盤以降なにかの悪い冗談みたいに盛り上がりますが、それをこの曲でやる必然性を、少なくともわたしは感じ取ることができませんでした。それは端的にいって、「ここらで一発かましたろか」という、ほんものの感情の裏打ちがないショーマンシップ以外の何物でもありません――とはいえ、それを頭ごなしに否定するべきではないでしょう*1し、ひとによっては「内面という病からとことん自由で、健康的なショパン」と思うかもしれない(笑)
- モラヴェッツ(一九六五年、SUPRAPHON)
SUPRAPHONのCDですが、年代からも明らかなように、中身はコニサー音源です。この時期のモラヴェッツのベートーヴェンにそれほど感心しなかったことは以前記した通りですが、この曲の演奏は別人のように腰が据わった構えで、ふだんラテン系のピアニストを専ら聴いている向きには、もしかすると重たく感じられるやもしれませんが、わたしはピアニストの個性としてこれをよしとしたいです。
[9:35]からのクレッシェンドが至妙。このピアニストとしては大胆なテンポの動かし方もみごとハマっています。充実した、分厚い手ごたえを感じることのできるショパンです。
- レオ・シロタ(一九五二年、ARBITER)
シロタはブゾーニ門下ですが、師匠のショパン演奏に感じられるそぐわなさは引き継いでいません。むしろ、ピアノのベル・カント奏法は出身地のロシアのピアニズムの精髄ともいうべきものでしょう。
この演奏当時シロタは六十七歳、盛期はすぎたという感は否めないし、音源の状態が今ひとつなのが惜しまれますが、テクニックはまだなおしっかりとしており、タッチの美しさは貧しい録音からも伝わってきます。じつにエレガントな歌いまわしで、穏和な人柄が反映された印象。
ピアニストとしていちばん良い時期は去っていたかもしれませんが、それでもなお、このバラードは老匠の輝きを伝える、偉大な落日です。
(フランソワの演奏についてはこちら)