ビシュコフふたたび

ロシア物は今ひとつ冴えなかったビシュコフ/N響ですが、ワーグナーマーラーのプロは面白かったです。スヴェトラーノフマーラーは(第七の実演を聴いた限りでは)借りてきたネコみたいに大人しい演奏でしたが、ビシュコフはその逆を張る恰好。

先日視聴したプロでは指揮棒を持ち、スコアを見て振っていたビシュコフですが、トリスタンの前奏曲と愛の死では、タクトを持たず、しかも暗譜の指揮でした。後プロのマーラーのために呼んだであろうトラ(……かな?)も乗せた大所帯の弦がたっぷりと歌います。ワーグナーらしいうねりも出ていて、ロシア流儀どころか、本寸法といってもいいくらい。

マーラーの第五は、重量感のあるマスの響き(それでいて解像度はかなり高い)を力強くドライヴする場面と、弦を入念にうたわせ、大胆なアクセントをつけることも辞さず、濃密に味付けされた緩徐部とのコントラストが強烈な演奏です。

一楽章は、第二主題が繰り返し現れるたび最初と同じテンポに戻るため、三度目ともなるとちと芸がないかなと思いますが、十分前後から「おいおい、ここまでやるかよ」というくらい感傷的な音色で嘆きぶしを嫋々と歌いあげるのには「やられたっ」と思いましたね。あざといといやああざといのですが、わたし、こういうの嫌いじゃありません。かすかなゴロの残り香というか何というか……(笑)

二楽章がたぶんもっとも充実した出来だったのでは。オケもすっかり温まって、迫力で攻める場面と纏綿と歌いまくるセクションとの交錯にめまぐるしくも凄まじいものがありました。

三楽章。ビシュコフの棒にはレントラー風の情緒がまるでなく、これはロシアの指揮者が日本のオケを振ってるのだからそんなもんだろうといわれてしまえばそれかもしれませんが、かなり味気ない。一方、ホルンのどソロは一体どんなことになるのやらと心配でしたが、オジサン、頑張ってました(絶対ひっくりかえりまくるだろうと思ってた ^^;)。

四楽章(ここも棒を持たずに指揮)。どれだけメロメロにやってくれるのやらと思っていると、テンポは意外や端正。そのかわりセンプレ・モルト・ヴィブラートでねっとりと肌にまとわりつくように歌い*1、ピアノ、ピアニシモの生かし方もうまいです――ただ、じつに甘美ではあるものの、甘いだけで、ここには「苦み」のようなものはあまり感じられないかもしれません。

フィナーレは、一楽章がそうだったように、第二主題(?)になるたびガクンとテンポを落とし、コントラストを強調するスタイル。これはこれで効果的なのですが、その分流れのよさや勢いは損なわれたように思います。この日はオケのノリも良く、もっと盛り上がっても不思議ではなかったのですが……

マーラーの音楽はいかにもキメラ的で、その脈絡は複雑をきわめますが、だからといって脈絡がまるでないというわけじゃあございますまい。今これを書きながらテンシュテットのスタジオ録音を聴いているのですが、「爆演派」と決めつけられがちなこの指揮者が、たとえば一楽章では、第一主題部と第二主題部とのあいだで極端な落差を感じさせないよう、ふたつのテンポが自然につながるよう腐心していることがよく分かるでしょう。そうしてこそ、音楽全体を通じての脈絡が生き、説得力あるものとなります。テンシュテットの演奏の迫力なるものは、蓋し、脈絡――すなわちドラマトゥルギーの根源的な力強さにこそ根ざしたものなのです。

コントラストの対比は、音楽の構造を強調するうえで効果的な手段であることはいうまでもありませんが、コントラストだけでは音楽が前に進んでゆかないのもまた道理です。

――と、いろいろいいましたけど、聴いていてとても面白かったことは確かです。こんどビシュコフを聴く機会があるとしたら、ロシアものではなく、マーラーシュトラウスのプロに行くべし、と分かっただけでも収穫というもの。

*1:マーラーが生きていた頃のウィーン・フィルの弦はノン・ヴィブラートだったはずで、この曲など、どう響いたのでしょうか……