モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ

セルゲイ・ハチャトゥリアンという若いヴァイオリニストの演奏で、モーツァルト変ホ長調のヴァイオリン・ソナタ(ケッヘル番号は三七八)を聴きました。ピアノは彼のお姉ちゃん。

これまた、上手い青年です(ヴィエニャフスキだのパガニーニだのではなし、モーツァルトを弾いてうまいと思わせるのだから――と思っていただきたく)。フレージングはじつに凝ってますし、思慮深さを感じさせる音色もそれにふさわしいでしょう。お姉ちゃんのピアノがもう少し粒立ちがよければ(いささかベタっとしている)と思わなくもないですが、表情はけっこう豊かで、決して悪くありません。

だけど聴いていて、何から何まであまりにきっちりとコントロールされているものだから、ホッとひと息つけるところがないのがちょっとつらかったです。それが一概に悪いことだというのではありませんが、わたしは、聴いているうちからオレグ・カガンのヴァイオリンが懐かしくてしかたなかったです(いま、リヒテルと共演したEMI盤を聴きながらこれを書いています)。

カガンのモーツァルトを聴いていると、決まって

誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときにはいつも、わたくしは、ピアノに向かってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである。*1

というエトヴィン・フィッシャーのことばが思い浮かびます。録音で聴いていても、わたしたち聴き手がかれを愛しているように、彼も聴き手に愛情をもって報いてくれている、と感じることができるのです。

その点、セルゲイ青年はすぐれたヴァイオリニストだと思いますが、音楽が一方通行なのです――ただし、繰り返しになりますが、これは音楽の良し悪しとはまた違った、あくまでわたしの個人的な好き嫌いの問題であることをおことわりしておきます。

*1:エトヴィン・フィッシャー『音楽観想』(佐野利勝訳/みすず書房)、三十八頁