ミュートン=ウッド/二十世紀音楽集

ミュートン=ウッドの自死は、恋人の後追いというといかにもロマンティックなひびきを帯びてきこえるかもしれませんが、彼に親しい人々によれば、自分は正当に評価されていないという積年の不満もまた死の引き金に手をかける一因であったのでは、といい、ブリテンヒンデミット、ビーチャム、ヘスといった楽壇の大立者の絶賛にもかかわらず、かれの人気はその実力に見合うものではなかった――と彼らはピアニストのために惜しんでいます(少なくとも本人は大いに苦にしていたらしい)。若くして十一曲の協奏曲を録音したというと、それはたしかにひとかどの実績ではありますが、レーベルはEMIでもなければデッカでもなく、二流どころのコンサート・ホール・ソサエティーであり、一種便利屋的扱いであったといえばいえなくもないのが実際でした。

その十一曲中三曲を占める二十世紀ものは、残念ながら、ミュートン=ウッドの「楽屋名人」ぶりが目立った録音で、ちょっと人にすすめようとまでは思えないというのが正直なところです。

先に触れた通りかれのテクニックはじつにすぐれたもので、だからこそ二十世紀もののレコーディングのお鉢も回ってきたわけでしょうが、その技倆のほどをヴィルトゥオジックに誇示するということがない分、音楽が良くも悪くも端正なものとなり、爽快さや突き抜けた快感は求めても得られない憾みがあります。解釈の知的な誠実さも、それ自体としては大いに尊ぶべき美質ではあるものの、ここでは作品に対して一歩引いた、深い思い入れや旺盛な表現意欲に欠ける演奏に聞こえてしまうのはどうしたものでしょう。それより何より、ロマン派音楽を弾いているときはたくまず現れていたミュートン=ウッドの個人的な内面表出がほとんど見出されないのが、わたしにはもの足りなく感じられます。

ストラヴィンスキーの協奏曲は、リュビモフのみごとな演奏と比べると切れ味が落ちます*1し、ショスタコーヴィチの第一協奏曲も、すんなりとまとまりすぎて、作品本来の一種雑駁な活気が失われてしまったようにわたしには思われました。同様に知的な再構成のスタンスをとっていても、複雑なコンテクストの文目を強い説得力で織りなしているグリンベルグに対して、ミュートン=ウッドはあまりにも多くの要素を看過してしまっている感があります。

三曲の中では、ブリスの協奏曲の力強い演奏が今なおオーソドックスとしての魅力を失っていないのではないでしょうか。ただし、曲にまだあまり馴染んでいないわたしが云うのも何ですが、音楽としてはストラヴィンスキーショスタコーヴィチと比べると……

*1:とはいえこれは、五十年前の陸上競技の記録をいま現在のそれと比べるようなわざかもしれません……