ミュートン=ウッドのチャイコフスキー/第一協奏曲

ミュートン=ウッドによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番(DANTE)も、二十世紀音楽同様、大向こうをうならせるような演奏だとはいえないでしょう。この曲の名盤といえば誰しもが思い浮かべるであろうホロヴィッツリヒテルとはかなり様相を異にすることは確かです。

そのホロヴィッツがニューヨーク・デビューにこのコンチェルトを選んだことからも分かるように、ピアニストの腕っ節を誇示するためにはこれくらいふさわしい曲もございますまい。しかしながら、例によってミュートン=ウッドのピアノは名技的な華やかさや壮麗からは遠いものです。しかのみならず、ゲーア/ヴィンタートゥーア響の管弦楽ともども、ロシア的な情緒があまり感じられないこともあって、わたしもこれを聴いたときは、最初「えらい地味な演奏だなあ」と思ったものでした。

しかし、その地味さは一面、新鮮さでもあります。

多くのピアニストたちがスピード競争しているかのように弾きとばしがちな箇所など、ミュートン=ウッドの入念で知的なピアノで聴くと「こんな曲だったっけ」と思うことがたびたびです。名技性を競うことが主眼に置かれる限り、この曲は誰の演奏で聴いてもいっしょ、という感を抱くことがしばしばなのですが……ミュートン=ウッドのピアノはひ弱どころの話ではなく、ここぞというところで音楽の線を明瞭に描き出す力強さは、深い洞察に裏打ちされたこのピアニストの「テクニック」の真骨頂ともいうべきものです。ピアノとオケのきわめて協調的な関係も、両者が派手にわたりあう「宇宙怪獣大戦争」風の音楽作りとは一線を画しており、豪快なオクターヴやスケールの最強奏のもたらす興奮にかわって、ここでは音楽の構造それ自体が雄弁に語りかけてきます。

しかしながら、何といってもこの演奏にあって魅力的なのは、ピアノの弱音域を重視したダイナミクスと、最弱音の繊細な表現力にあります。ピアニストはここで自らのもっとも効果的な「武器」をそれと知って最大限に駆使しているのです――考えてみれば、この弱音の魅力こそ、かれの二十世紀音楽演奏に欠けていたものでしょう。