ついでといっては何ですが

手許にあるチャイコフスキーの第二協奏曲をもう少し聴いてみます。

有名どころでは、どういうわけかギレリスがちょくちょくこの曲を弾いており、三つの同曲異演がのこされているようです。そのうちわたしが聴くことのできた盤は、一九四八年、コンドラシン/レニングラード・フィルとのライヴ録音(VENEZIA)。

この曲といわず、チャイコフスキー演奏の一般的イメージに近い――というかドンピシャなのは、いうまでもなくギレリス盤の方でしょう。ピアノのヴィルトゥオジックな華やかさもさることながら、管弦楽が「お国物」ならではの情緒ゆたかさで、音色といいちょっとした節回しといい実に味わい深いです。二楽章の二重奏など、甘美さのなかに哀切な憂いがたたえられており、ヴィンタートゥーア勢とはまた一味ちがった、ロシアの真髄といいたくなるような聴き物でした。

もっとも、ギレリスというピアニスト、どこが良いのやらわたしにはさっぱり分からなかったりします。あの、音を「置きに行く」フレージングが好きになれません。こころが歌っていない――のです。ミュートン=ウッドと比べたらただの「弱い音」でしかないピアノ/ピアニシモの平板な表情もマイナス。

伴奏巧者として名高いコンドラシンも当時は三十代半ば、多かれ少なかれ、レニングラード・フィルに助けられている部分があるでしょう。二楽章後半の嵐の予感を思わせる音楽の、不穏さをかきたてるような緊迫感と描写力などは、ミュートン=ウッド盤のゲーアに一日の長があります。派手さこそないものの、この指揮者、やっぱり上手いし、なかなか格調が高いです。

プレトニョフ/フェドセーエフ/フィルハーモニア管の全集録音(VIRGIN)は、風呂場の鼻歌みたいにモヤモヤした音録り。同レーベルで収録したショパンもこんな感じだったので、ピアニストの趣味じゃなかろうかと。指揮者はフラストレーションがたまったんじゃないかなあ……

これは原典版による演奏で、先にご案内のとおり二楽章はジロティ版のほぼ二倍、十四分かかっていますが、肝心のヴァイオリンとチェロがあまりパッとしません。特にヴァイオリン。この程度のソロなら七分つきあえばたくさん、それ以上は時間の無駄、といいたくなります(^^;