続き、見ることあるのかなあ

テレビでモーツァルトの協奏交響曲(ヴァイオリンとヴィオラのための)をやっていたので見ました。ソリストウィーン・フィルコンマスのH氏とY響のソロ・ヴィオラ奏者のS氏、管弦楽はO氏指揮のY響です。

で、見始めたはいいのですが、十分くらいでつらくなって、見るのをやめました。

一つには、こういうといかにも残酷でしょうけど、H氏とS氏とではあまりにもタマが違いすぎたためです。天下のウィーン・フィルコンマスと極東の島国のオケマンでは違っているのが当たり前なんですけど、こうして並んで弾いているのを聴くと、その違い方が、S氏と同じ日本人には、絶望的なものとさえ感じられました――H氏のヴァイオリンが軽々とはばたき、飛翔するかたわらで、S氏のヴィオラは重力の魔にとらわれ、地面をはいつくばっているのです(比喩でもなんでもなしに)。

S氏も、テクニックに関しては、ヴィエニャフスキの技巧的な小品のひとつやふたつ、ヴィオラで弾けといわれたらさっと弾けるくらいの腕の持ち主であろうことは疑うまでもありません。問題はちょっとしたフレージングや運弓、リズム取りのセンスで、だからこそ、なおさらどうにもならないことのように思われてならないのです。テクニックは練習すれば何とかなるかもしれないけど、感性は……

この場合の「重力」とは一体何だったのでしょう。氏が受けてきた教育や環境の呪縛なのか、それとも、東洋人が西洋古典音楽を弾くことの限界なのか――

そしてもう一つ厭でも気付かされたのは、いわゆるピリオド・アプローチなるものを採用していると思しき小編成オーケストラの弱音が、まさにただ弱いだけの、表現としてまったく力のないものであることです。これはモダン楽器で弾いているにもかかわらず、そのアドヴァンテージを平気でなげうっているにひとしいわざというものでしょう――だって考えてみてもごらんなさい、モダン楽器がピリオド楽器にできないことをすることを自らに禁じたうえでテキの真似をしているのでは、奴らに勝てるわけがないではありませんか。