遺作変奏曲の排列(三)

コルトーによる遺作変奏曲の配置を直接下敷きにしていると思われるのが、ソフロニツキーとジャン=フィリップ・コラールです。ただどちらも微妙にコルトーとは違う。

ソフロニツキーは遺作変奏曲の第三をカットしていますが、これに関してはコルトーも入れるところがなくてここで弾いてみたという感じがしないでもなかったので、個人的にはなるほど、と思わぬでもないです――それにしても、ソフロニツキーの弾く遺作変奏曲のうつくしさといったらありません。第二変奏曲の霊妙なるタッチ!

一方何を考えているのかよく分からんのがコラールで、遺作変奏曲の第五からエチュードの第八につなげた場合の「過剰な」*1表現性を避けた――というのであればそれはそれで納得ゆきますが、それをフィナーレの前に持って行ったのは……

ところでこの演奏、フィナーレであまり耳慣れないヴァリアントを弾いています。これ、いわゆる改訂前の初版でしょうか。

リヒテルは遺作変奏曲をすべて弾いていますが、一箇所にまとめて挿入しています。エチュード第六番に前置するのはコルトーたちと共通。原曲にはなかったオイゼビウス―フロレスタンのコントラストが発生するわけですが、リヒテルは五曲を続けて弾いていますから、その対比感もなおさら強烈……まさしく不安と焦燥感が爆発したような、すさまじい Agitato です。

もう一つ、一九五六年プラハ・ライヴのPRAGA盤では、エチュードの第七のあと、三曲がカットされていきなり第十一番に飛んでいます――このレーベルは色々ヘンなことをするので有名ですから、ことわりなしにカットしているだけかもしれませんが、これはこれで文脈がギュっと濃縮されて面白かったりします(ちなみに七十年代の演奏は全曲ノーカット)。

リヒテルによれば、師のネイガウスはこの曲をワーグナーの『指輪』四部作にたとえていたといいますが、その構想において遺作変奏曲はどのような位置を占めていたのでしょうね――ちなみに、同門のギレリスは遺作変奏曲を弾いておらず、ヴェデルニコフ前述のようにリヒテルともまた違ったかたちで変奏曲を挿入していました(ソフロニツキー同様、第三変奏曲をカット)。

メルニコフはエチュードの第五と第六のあいだではなく、第八にふたつの遺作変奏曲を前置しているのが目をひきますが、先に述べたとおり、曲間にパウゼをとってつながりをあえて殺している趣があり、コルトーソフロニツキーにおけるような劇的効果はありません。無論それも、意図した上でのことでしょうが。

個人的にもっとも意外の感にうたれたのはグリンベルグの演奏で、一見遺作変奏曲に見向きもしなさそうなこのピアニストが、一八五二年の改訂の際は作曲家によってカットされたというエチュード第三番のかわりに、遺作変奏曲のなかでもとりわけ美しい第四を弾くというきわめて独創的な手段をとっています。若い頃から考えに考え抜いて、オリジナルな解答を見出してきたこのピアニストならではといえましょうか――(モスクワ音楽院時代、熱情ソナタの第一楽章第二主題の解釈をめぐって師のイグムノフと意見が対立したものの、最終的には師も彼女の演奏に納得した――というエピソードが伝わります)

*1:ただし、わたしは必ずしもそう思いません。