遺作変奏曲の排列(二)

しかしながら、コルトーの演奏でもっとも問題となるのは、エチュードの第七(Allegro molto)と第八(Sempre marcatissimo)のあいだに挿入された遺作の第二変奏曲(Meno mosso)と第五(Moderato)でしょう。

まず、二曲の遺作変奏曲の並びがひとつの発明というべきです。第二変奏曲のものかなしげな追憶が静まってこの上なく甘美な第五変奏曲へと到る推移はきわめて自然でうつくしく、一篇の抒情詩を思わせます。一足す一が三になり四になる、とはこのことで、それぞれの変奏曲が単独で演奏されたとしてこれほど聴き手の心の琴線に触れうるでしょうか、わたしには疑わしく思われます。

そして、この至上の夢の流れを、エチュードの第八が無情に断ち切るのですが、それは夢想の終わりを厳粛に告げる予言の声のようでもあり、美に溺れ、逃避しようとする自己に「現実」を突きつけるもうひとつの自己のようでもあり……

たとえばマーラーの第六交響曲でも、同じアンダンテが二楽章になるか三楽章になるか、それだけでどこか違って聞こえることは経験済みですが*1コルトーの演奏、とくに戦後の再録音で聴くエチュードの第八には、ここに遺作変奏曲を挿入しない多くのピアニストたちによる演奏からは感じられない、苦い後味があります。

オリジナルの排列においても、エチュードの第七と第八はそれぞれに対照的な性格の音楽で、ここが楽想上の転換点として作用している(その点も、先日述べた三箇所とは趣を異にするでしょう)のですが、コルトーはふたつの遺作変奏曲をそこに挿入することによって音楽を大胆につくりかえました。Etude V - Var. post. IV - Etude VI という流れと比較しても、そのコントラストは著しく心理的なニュアンスを帯びており、その脈絡は物語的でさえあります。

ひとは、元来器楽的に発想された交響的練習曲を一種文学的に解釈しているとしてコルトーを非難することもできるでしょう――いかにも、カルナヴァルにおけるような描写性に依拠することなく、ダヴィッド同盟舞曲集のO-F-O-Fの繰り返しではたどり着けない地平を目指した若き作曲家の意欲がこの曲に充溢していることは確かです。

しかしながら、わたしたちがシューマンの音楽に求めているものとはいったい何なのでしょう。「堅固な構造」でしょうか?……だったらベートーヴェンブルックナーを聴けばいいんです、わたしにいわせりゃ。

シューマンに関しては、私たちは彼がすでに解決している作品の仕上り具合の問題を考えない。私たちは彼の音楽から生まれる感動について思うだけだ。(コルトー

わたしが遺作変奏曲に拘泥したくなるのは、ひとつにはそれがいかにも美しいからですが、こういう性格の曲が本編の十二のエチュードには見出されないからでもあります。

それらの変奏曲が推敲の過程でボツになった曲であることはすでに記したとおりですが、出来自体はすばらしく、本編に採られることがなかった理由は断じて水準以外のなにかによるものです。入れるのに適当な場所がなかったということもあると思いますが、あえてそれらをカットすることによって、拡散的になりがちな自らの音楽にタイトなまとまりをもたらそうとしたのではないでしょうか――玩具箱をひっくり返したような内面の多面性がそのまま盛り込まれている謝肉祭やダヴィッド同盟舞曲集とは対照的に、です。

蓋し、遺作変奏曲はシューマンの自己の半面であり、コルトーはこの曲に、ツヴィカウの作曲家の天分のもっとも美しい部分をふたたび迎え入れたのです。

*1:例によって参考にならない参考記事はこちらをどうぞ。