フセイン・セルメットの展覧会の絵

テレビでフセイン・セルメットの展覧会の絵を観ました。

このトルコ出身の御仁はティエリ・ド・ブリュノフの弟子なんだそうで、セーヌ川に浮かんだダルマ船(……といったら語弊があるかな)とピアノを師匠から受け継ぎ、今もそこでレッスンをしているんだとか――ということはコルトー直系のなかでもとくに血が濃い部類のひとなのか、と思うと感慨深いものがあります。

この展覧会の絵という曲はピアニスティックには書かれていないし、ラヴェルの名編曲がむしろ原曲以上に人口に膾炙しているため、どうしてもそのイメージと比べられがちです。かてて加えて、ロシア的心性としかいいようのない極端な感情の振幅――ロシアの大地に縛りつけられ、未来永劫それとともに生きてゆくことを宿命づけられた者の、底知れぬ根源的な悲哀から、感情の絶対値はそのままで正負だけが転じた、強烈きわまる歓喜に到るまで――すなわち、異邦人にとっては、アタマでは理解できてもそれを全的に追体験することは困難である要素を含むため、蓋しセルメットにとっては三重苦が待ち構えている情勢ですが、演奏は「模範的」*1であるというにとどまらない、きわめてみごとなものでした。

以前に聴いたエミール・ナウモフによる演奏(一部で有名なピアノ協奏曲版ではなく、原曲)は、フォーレのレクイエムから火の鳥に到るまで何でもピアノ独奏で弾いてしまう才人だけのことはあって、オーケストラもかくやという多彩な響きで今なお記憶に残っていますが、セルメットの演奏からは、むしろピアノならではの表情の濃やかさを重んじていることが伝わってきます。たとえばベートーヴェン弦楽四重奏曲弦楽合奏版をきいてからあらためてオリジナル版による演奏を聴いたときに受ける、演奏者の情動がきわめてストレートに音に出るあの感じに通じるものがあるでしょう。

とにかく弱音のニュアンスの豊かさには驚かされます。音の減衰にいたるまで完璧にコントロールされているかの観があり、よほど耳とタッチとペダルの技術が優れているのでしょう――必ずしも豊かとはいえないムソルグスキーのテクスチュアに空間的な広がりと奥行きがもたらされているのも、蓋しこのペダルの妙技にかかっています。

セルメットのピアノは、いかにも平生この曲に結びつけられがちな荒々しいイメージから隔たること遠く、いわんや、聴く者を圧倒し、ねじ伏せようという山っ気も感じられないでしょう――それではこの演奏が「ムソルグスキーらしくない」かというと、わたしはそうは思いません。「らしさ」とは畢竟、あまりに聴き慣れしすぎてわたしたちがこの曲に類型的な印象しか感じられなくなりつつあることの謂ではないか知らん。

大事なことをピアノ、ピアニシモでいうことによって聴き手の耳をそばだたせ、その意識を強く引き寄せる、磁力のような内的緊張感にあふれたセルメットの音楽性はわたしたちの心耳を研ぎ澄ませ、ムソルグスキーの感受性の驚くべき濃やかさに改めて思い至らせしむのです。その音楽の一面である繊細で初々しい叙情は、わたしにとってきわめて新鮮に感じられるものでした。

この曲は、オケ版のチェリ様とゴロ、ピアノ版のユーディナとリヒテルがあればあとはいいかな、と思いかけていたところですが、ここにもう一つきわめて魅力的な選択肢が現れました。セルメットは、もっとほかの曲でも聴いてみたい人です。

*1:これはNHKピアノ・レッスン番組の模範演奏なんだとか。