≪展覧会≫くらべ

録りためた展覧会の絵があったのでみてみました。アンナ・ヴィニツカヤという若いピアニストのライヴ演奏です。いまちょうど開催中のエリザベート・コンクールの前回優勝者だとか。

演奏はさすがに意気込みを感じさせるもので、華々しく痛快なヴィルトゥオジテといい力強いコントラストといい、はなはだ聴き栄えします。音楽性に不自然につくったところがないし、ピアノのひびきもきわめて鳴りがよく、美しい音色でした。

――しかし、あえて端的にいえば、腕自慢の若者が弾いたらこうなるであろうという想定の範囲を超えるものではありません。彼女の演奏をきいて、あらためてセルメットがどれだけ入念かつ緻密に考え抜いてこの曲を弾いているのかがよく見えてきました。

たとえば歌いまわしなど、同国人のヴィニツカヤのほうが自然なのではと思いきや――若いピアニストは指が走ってしまうのを抑えることができません。彼女の弾く≪サムイル・ゴリデンベルグとシュムイレ≫には激越なコントラストこそあれ、そこから貧しいユダヤ人の哀れをさそう訴えは聞こえてこないでしょう――彼女の指にかかると、このきわめて性格的なパッセージも、いかに歯切れ良く、指さばきの力強さを誇示することができるかという挑戦としか思えなくなるのです(覚えず連想したのは、ラヴェル版を吹きまくるアメリカのオーケストラの首席トランペット奏者でした)。

対するセルメットは、このナンバーに限ったことではありませんが、ヴィルトゥオジテをあからさまに見せつけるようなことはしません。むしろ、ふたりのユダヤ人の声調をピアノでどれだけ語りかけるように再現できるかに意識が置かれているのです。何もピアノで「絵」の解説をしろというつもりはありませんが、ムソルグスキー特有のデクラメーションに対して深い理解を示しているのがどちらであるかはいうまでもありますまい。

ところで、これはヴィニツカヤに限ったことではなく、ロシア人ピアニストのおおかたがそうですが、彼女は≪キエフの大門≫をフォルテで弾きはじめます。≪バーバ・ヤーガの小屋≫からそのままなだれこむ恰好ですね――それに対してセルメットは、ここでダイナミクスをメゾ・フォルテに落とすのです。

これはどういうことかと想像するに、おそらくセルメットはラヴェルによる管弦楽版を意識しているのです(要はダイナミクスの幅の問題)。一方ロシアのピアニストたちはというと、原曲と編曲版は別物と割り切って弾いている(読めないなりにスコアを調べてみると、たしかにこの曲の冒頭にはフォルテと指示がありました)。


(これについては、あらためてもう少し考えてみたいところです)