再説ブリュショルリ

すでにご紹介したブリュショルリのエジプト風をinaのサイトで聴きましたが、以前に触れたDOREMI盤と比較して良くも悪くもよりライブらしい演奏――というのがわたしの印象でした。エキサイトする場面での崩れはより甚だしくなり、ここでピアノは主役じゃないんだからもう少し大人しくしていたら、といいたくなるような箇所も相変わらず元気良くパリパリと弾いています(こと指揮に関しては、あまり冴えないと思っていたDOREMI盤のフロマンも、マリと比べたらよほど合わせ上手な指揮者であったことがよく分かりました)。一楽章で崩壊しまくったことを反省したのか、二楽章の冒頭は頭の中で数えながら弾いているのが歴然(笑)ですが、実はこれ、DOREMI盤と多かれ少なかれ共通していたりします。

改めて思うに、ブリュショルリが――たとえば田中希代子などと比較してしまうと、ですが――ソルフェージュが弱く頭もそれほど良くないピアニストに聞こえてしまうことは否みがたいです。

「君は『ピアニスト』にはならないだろう、というのも良いピアニストたるにはあまりにもすぐれた音楽家なのだから」とは、たしか若いシュナーベルに師のレシェティツキーが語ったことばだったかと思いますが、そのシュナーベルと対極的な資質を運命付けられたのがブリュショルリだったのではないかしらん――すなわち、ピアニストとしては一流なるも、どうも音楽家としてはその水準に達しているような気がしないのです。*1

たとえば――以前わたしは彼女の弾くベートーヴェンハ短調協奏曲の凄まじい迫力を筆にしましたが、あらためて聴くとこの演奏、ドラマティックな両端楽章に対して、緩徐楽章がさっぱり面白くないのです。ことに、アニー・フィッシャーハスキルといったすばらしい「音楽家」の後に聴くと……

とはいえ、人間誰しも完全無欠にはほど遠い存在です。わたしの酷愛する晩年のコルトーなど、減点法的な聴き方をしたら点数が残るかどうかからしてアヤシイ(^^;

コルトーにはコルトーならではの良さがあるのと同様、ブリュショルリにもブリュショルリの良さがあります。とくにこのサン=サーンス、彼女のウィーン古典派では今ひとつ表現と有機的に結びついていなかった弱音が生きていて、一楽章の第二主題の歌いまわしのうつくしさについては先にも触れていますが、あらためて感嘆させられました。この楽章の伝法な威勢の良さにはちと微苦笑を禁じえないものの、たしかにDOREMI盤以上の迫力です(諸肌脱ぎの肩には昇り鯉の一匹も泳いでいそうな……)。

*1:このレシェティツキーの言は、フリードマンやモイセイヴィチ、ブライロフスキーといった「良いピアニスト」を多数育て上げた名教師のことばであったことを思うとより意味深くひびくのではないかしらん。