コルトーのショパン/バラード第一番
ここではバラード第一番を例にとりましょう。プレリュード集やソナタより一つ多い、三つの同曲異演を比較しうる便がありますし、各演奏を聴きくらべてゆくことを通じて、佐藤泰一氏をして「バラ一といえばコルトー、コルトーといえばバラ一」とまでいわしめた名解釈の形成を垣間見る思いがするからです。
上掲のとおり、録音年が近接していることもあって演奏の設計図には共通する部分(たとえば、コーダに入るところの「間」がそうでしょう)があり、それぞれに聴く分にはどれもみごとな演奏ですが、よくよく聴きくらべてみるとその印象は意外と異なります。
○最初の録音はコルトー四十九歳の記録で、脂の乗り切った、きわめて華やかな演奏効果を誇るレコードです(あとの二種がバラードの全集録音であったのに対して、これは第一番単独の吹込でした)。一九二〇年代初頭のロンドンに滞在し、コルトーのステージに接している音楽評論家の野村光一翁は、二度目と三度目の録音を比較して、
「バラード集の旧盤は古い物としては中々録音が良いし、50代の最も脂の乗ったときのコルトーの演奏だけに、非常に華々しい力演であり、その後の新しいバラード集にはみられない緊張と迫力が窺える(ただし、いささかどぎついが)」*3
と述べているのですが、その一九二九年録音でさえおとなしくきこえるくらい。表情的で思い入れたっぷりのアゴーギグと大胆なコントラストを孕んだテンポの起伏とは聴く者の耳を驚かせ、パッセージ・ワークをパリッと弾きあげる指さばきの鮮やかさや力強い左手の雄弁は、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてのコルトーがホロヴィッツたちにおさおさひけをとらなかったことを証明するでしょう。これだけを取り上げて聴く分には面白みたっぷりで、三つのレコード中最初のものがいちばん好きという方がいらしてもおかしくない出来だと思います。
しかしながら、実に聴きばえするこの大胆さは、同時に演奏の急所でもあります――というのも、「右手が何をしていても、左手はそれを知らないかのように正確にテンポをまもらなければならない」というのがショパンのテンポ・ルバートの本義ですが、この演奏では左手がきちょうめんに拍を刻むという役割におとなしく留まっていないことにくわえて、強調した音符の前後で辻褄を合わせず、テヌートした分そのまま一小節が間延びしてしまうため、ややもすると拍節感があいまいになっているのです。
そのため、結果として音楽の自然な流れが損なわれがちですし、フレージングはいささか放恣な印象を与えます。音楽が昂揚する場面は直截な迫力で聴き手を圧倒する一方、第二主題の歌わせ方がなめらかさに欠けるのも、ショパンの生理的な呼吸とピアニストのそれとのいきが合っていないと感じさせる体で、蓋しこの演奏スタイルは、同じ機会に録音された舞踏への勧誘やリストのハンガリー狂詩曲にふさわしいほどはショパン向きでないのです。
このような評価は厳しすぎるでしょうか?――わたしは必ずしもそうは思いません。というのも、つづく一九二九年の録音で、当のコルトーが上に指摘した問題を解決すべく面目を一新した演奏をしているからです。
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