コルトーのショパン/第一バラード(みたび)
(こちらの続きです)
こうしてふたつのレコードを聴いて感じたのは、相性ということでした。
一九二六年盤は、思うに解釈やスタイルに関してそれほど自覚的でなく演奏されたもので、コルトーの心づもりとしては、ウェーバーやリスト、シューマンを弾くときと同じように弾いていたというのが実際でしょう。ほとばしるような情熱、華やかなヴィルトゥオジテ、立て板に水の雄弁……ただ、このやり口がリゴレット・パラフレーズや謝肉祭ではみごとはまったのに対して、ショパンではちょっとばかり「やりすぎ」にきこえてしまうのです。
体質からいって、「イメージの人」であるコルトーは、文学の世界やうつくしい風景に霊感の源をもとめ、描写的な標題音楽を多くものしたシューマンやリストにきわめて近しい演奏家でした。たとえば後者のロ短調ソナタのような作品においても、このピアニストのゆたかなイマジネーションと喚起力は≪ファウスト≫物語を生き生きと描き出しています。
一方、ショパンの成熟期の作品のほぼ全てが純粋な器楽曲であったことはご案内のとおりで、その書法は多く古典主義の範例に従っています。ここではコルトーの持ち味が、もちろんそれ自体としての魅力(みごとなパッセージ・ワーク、闊達な名調子……)は発揮しているものの、同時にショパンの音楽のととのった形式感を損ねる方向にも作用してしまっていることは否めません。
これを要するに、コルトーとショパンとは、元来相性があまりよくないのです――これは何もわたしの独断などではなく、当のコルトーが、こんな述懐を遺しています:
「自分は単純にショパンを弾けない」とは大いに留意すべき告白でしょう。ショパンがニンに合わないくらいのことは、指摘されるまでもなく本人がいちばん良く承知していたのです。
……コルトーも、自分は単純にショパンを弾けないけど、あなたは単純にショパンがでるから、あなたのショパンこそ本物だよって言って下さった。自分のは屈折して七色のプリズムになって出てくるというのね。あなたのは孤独な音がするから、それはかけがえがないことだよと……(下略)*1
相性というのはコルトーに限らず、ほとんどすべての演奏家について多かれ少なかれ当てはまることで、(先日触れたばかりですが)フルトヴェングラーのモーツァルトやムラヴィンスキーのハイドン、はたまたクレンペラーのブルックナーなど、「演奏家の片思い」というべき例は枚挙に暇ありません。
この三人の巨匠はいづれも名うての録音嫌いで、じぶんのレコードを聴く習慣もほとんどなかったためか、不得手なレパートリーは不得手なままで通してしまったのですが、コルトーは自らの二六年盤を聴いてよほど考えるところがあったとみえて、再録音ではほとんど正反対といってもいいくらいに解釈を一新しました。仔細はすでに述べたとおりですが、とりわけ拍節感と全体の構造のアウトラインを強調することを通じて格調と均整とに意が用いられており、旧盤が主観的にしてロマンティックであったとすれば、新盤は客観的かつ古典的です。
間違った打鍵、リズムの緩急、解釈のファンテジー、即ち音楽の演奏における人間的美点は、その原因がインスピレーションにあり、はたまた神経作用にあるかによっては、音楽会の雰囲気に応じて、或は寛容され、或は正当視されるのであるが、機械による伝達の場合には、これは文字通り全く我慢の出来ないものになるのである。(……)その場合、音楽はその最も客観的体用、即ち「時に於ける建設物」として現れない限り、十分な効果はないのである。
コルトーの筆になる小文『演奏家の態度』にはこんな一文があって、気のせいでしょうか、まるで自ら第一バラードのふたつのレコードを比較した自己批判ででもあるかのように読めなくもありません。ミスタッチはともかくとして、「リズムの緩急、解釈のファンテジー」が一九二六年盤の旗印であったことはすでに述べたとおりですし、全体の構造のアウトラインに意を用いた一九二九年盤を聴く者は、まさに「時に於ける建設物」を目のあたりにした思いがするでしょう――
コルトーの批評精神、ということをつとに指摘しておられるのは遠山一行氏ですが、録音という自分の演奏を鏡のようにうつす装置を介して、その批評家の目は自らに向けられていったのです。
(こちらに続きます)