スゼー/コルトーの『詩人の恋』

コルトーの五十年代のシューマン録音がグリーンドアから復刻されています。この盤のメインはフリッチャイとの協奏曲ということになるでしょうが、スゼーと共演した『詩人の恋』も、それに優るとも劣らない逸品です。その上にこちらは(たぶん)正真正銘の初CD化です。むかしある人がチェトラ盤をダビングしてくれたテープと比べる限り、復刻音質も上々の首尾でしょう。

そこまではいいのですが、このレーベルの通弊でデータには多少疑問があります(第一原盤が不明である)。解説の小笠原吉秀氏は一九五六年のライヴ録音としており、恐らく、その道の権威である鈴木智博氏の労作『コルトーのレコード録音』(新星堂の『アルフレッド・コルトーの遺産』シリーズ解説)の見解を踏襲したものと思われますが、当のスゼーが演奏会に先立ってレコーディングしたと証言しており(家里和夫『スゼーの肖像』)、聴く限りではオーディエンス・ノイズも入っていませんので、これが件のスタジオ録音なのであろうとわたしはみなしています。その場合、わざわざセッションを組んで録音した音源がどうしてチェトラみたいなアヤシイレーベルから世に出たのか、という問題が出てくるのですが……(ちなみに、コルトーHMVのアーティストで、スゼーは当時デッカと契約していたようです)

しかしまあ、データはデータ、演奏は演奏です。

劈頭のコルトーのタッチを聴いただけで異様なまでに濃密なその味わいにしびれます。スゼーはコルトーの謝肉祭(十八番!)を聴いたことがあって「とても熱い演奏だった」と回想していますが、この演奏においても七十九歳のコルトーの内面の火は衰えを感じさせません。

同じコルトーの演奏ということであればパンゼラと組んだHMV録音もあります。比較すれば整った演奏に仕上がっているのはパンゼラ盤で、スゼー盤は到底普通一般のセッション・レコーディングの完成度には達していません。鈴木・小笠原の両氏が揃って「これはスタジオ録音のわけがない」とみなしたのももむべなるかなというミスタッチの嵐。

しかし、その複雑混沌をきわめた音響(弾き間違いのあらぬ音も込みで)の海に、底知れない心象世界の深遠が横たわっているのです。割り切れない思い、どうしても心の外に追い払えない憧れ、情念の燠火が何かにあおりたてられるように燃え盛る瞬間、苦い後悔――等々、ひとことでは言い表せない、相矛盾した想念のこもごもを音にするには、この混濁した異様な響きが必要であったのか――とさえ思われぬでもありません。蓋しそこには、フルトヴェングラーのあの独特な気迫のこもった「バラバラの」アインザッツにも通じるある美学が存在するのです。

『音の響きは、まさしくシューマンにとって魂の言語そのものなのだ。この言語をよく理解するためには、それに精通している必要はない。ただ二十歳になり、希望を、そしてさらに望ましいのは後悔を心に抱くだけで充分である』コルトー

スゼーの歌唱もすばらしいです。コルトーの二種に対してスゼーにはこれを含めて四つかそこらの同曲異演があり、大雑把にいって若いときのものほど声が瑞々しく、後年は名パートナーのボールドウィンとともに「声とピアノのアンサンブル」として高度に一体化した表現が追求されている、といった違いがありますが、このコルトーとの演奏がわたしにはとりわけ好ましいです。心の感じやすさ、艶やかなヴェルヴェット・トーン、ためいき混じりの繊細な歌唱に、スゼーの若さが最高に生かされています。


(*)引用はベルナール・ガヴォティの『アルフレッド・コルトー』(遠山一行、徳田陽彦共訳)より。