たのしみ

『ロシア・ピアニズムの系譜』でも絶賛されていたサンヴェル・アルーミアンのプライヴェートCD*1が裏青でリリースされるようです。

http://www.aria-cd.com/arianew/shopping.php?pg=54/54newcdr

露骨にも程があるデジタル・コピー。すなおに喜んでいいことではないのでしょうけど、オリジナル盤を入手する見込みがあるとも思えないわたしにしてみれば機会は機会、「音が悪いのは我慢」(佐藤氏談)して何とか聴いてみようと思います。

ところで、アルーミアンもまたその一員であるフリエール・スクールに関してはひとつ不思議なことがあって、師匠があんなに大らかで情熱的なピアノを弾くのに、教え子にはどういうわけか理屈っぽい奴が多い(プレトニョフ、フェルツマン、ルディ……)。さて、アルーミアンはどんなピアニストなのか知らん。

*1:故佐藤泰一氏による『ロシア・ピアニストによるCDディスコグラフィー』第二版を参照のこと。

真にすばらしい、驚くべき音楽家

先日、某巨大動画サイトでたまたま御喜美江さんが弾くピアソラを聴いて、あまりのすばらしさに驚倒しました。生き生きとしたリズムといい、雄弁なアクセント、フレージングといい、まさしくピアソラが望んだであろうとおりに力強くスウィングしており、クラシック畑の演奏家が演奏しているという感じがこれっぽっちもしません。恐るべき「スタイル」に対する嗅覚です。

彼女の弾くピアソラがどれほど例外的な水準に達しているかは、彼女がおなじクラシック奏者と共演しているものを聴けばたちまち判然とするでしょう。ここでその名をあげるのはちとはばかられますが、彼女とオブリビオンリベルタンゴを演奏しているパーカッション奏者など、これこそピアソラの「クラシック弾き」の典型(リズムが平板にも程がある)で、こんな風にしか弾けないのであればいっそピアソラは弾かないでもらいたいし、豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまってピアソラに詫びのひとつもいれてほしくなるというものです。

その点、御喜さんの独奏による≪S.V.P.≫や≪チャウ・パリ≫は文句なしのすばらしさです。≪チキリン・デ・バチン≫の編曲はちょっと「真っ当」すぎて、タンゲーロだったらこうはしないだろうなあと思いますが、≪白い自転車≫はおみごとの一語につきる名編曲であり、名演でした。もし彼女がピアソラのアルバムを作ることがあるとしたら、そのときはクラシック奏者と共演するのだけは何としても勘弁してもらいたいところです(ガンディーニあたりと組んで、アレンジも奴に任せられたら最高なのですが……)。

本職、というのも変な話か知れませんが、彼女が自らアコーディオン独奏のために編曲したメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のフィナーレも、演奏のみごとさといい編曲の出来といい、そんじょそこらのオリジナルを軽く凌駕しています。これだけの演奏をできるヴァイオリニストがいま現在いるのかどうか、はなはだあやしいものであり、彼女がそうであるように、アコーディオン奏者だとかヴァイオリニストというよりも敬意をこめて「音楽家」と呼びたくなるようなひとは、なかなか思い当たりません(これはヴァイオリンに限らず、チェロやピアノに関しても同様)。

とうとう出ますね!

ごぶさたしております。
更新もサボりたおしてボーっとしていたら、うれしいニュースが。

http://www.hmv.co.jp/product/detail/3906661

フランソワのEMI全録音+αです。

わたしもこのうちCD二十七枚分は所持しているのですが、ほかに九枚分未聴ものがあるのかと思うと、うれしいような、気が遠くなるような……

リストの「ロシニョール」というのは、アリャビエフの夜鳴き鶯のトランスクリプションのことですよね。だとしたらうれしいなあ。コレと、ドン=ジョヴァンニの回想*1が、私的聴いてみたいベストです。

……おお、忘れるところでした、モーツァルトの協奏曲まであるとは!!!(←これに関してはどうやらHMV誤報だったようです……残念!)

*1:シューマントッカータなんかが良い例ですけど、こういう、腕っ節を利かせてナンボという曲を、とことん洒落のめして弾いてくれるフランソワが、わたしは大好き。

コルトーのショパン/第一バラード(五)

一九三三年盤は、一見、最初の録音に先祖帰りしたかの観ある演奏です。

たとえば、第一主題で左手にスコアでは指示されていない強弱をつけたり*1するのもそうですし、フレージングの抑揚にいたっては二六年盤に輪をかけて濃密です――こう書くと「お前のいっているのはルバートのことか?」といわれそうですが、まさしくそのとおり。コルトーといえば誰もが連想するであろうルバートの語法は、ここに至って顕現したのです。

ルバート自体は、ショパン自らの演奏でも積極的に援用されていたことが伝わり、孫弟子にあたるモーリッツ・ローゼンタールの弾くワルツなど、その自在きわまるアゴーギグには、ショパンその人もこんな風に演奏していたのだろうかと思わせるものがあるでしょう。コルトーもまた、ショパンの教え子であるカミーユ・デュボワ夫人のもとを訪れて多くの教唆を得たことが知られていますが、しかるに彼のルバートには、「ショパン流」のそれとは似て非なるところがありました。

第一に、コルトーの演奏ではしばしば、左手もまたリズムを正確に刻む役割から自由であることがあげられるでしょう。これが「右手が何をしていても、左手はそれを知らないかのように正確にテンポをまもらなければならない」というショパンの教えに背馳するものであることはいまさら申すまでもありますまい。しかのみならず、フレージングの伸縮もまた、このピアニストのそれは誰にもまして大胆でアクが強く、リズムの規則性に従順どころの話ではありません。

それでは二六年盤と何がちがうのかといえば――ここではある一音を強調すると、同一小節内でかならずその分の埋め合わせがなされているのです。

彼はルバート(奪うがごとく)に演奏した。だが、同一タクトの終わらぬうちに「奪われたるもの」を補償した。そして決してタクトを乱さなかったのである。コルトーの演奏を聴いていただきたい。彼はショパンの曲に(ペダル操法においても)、この男性的性格をあたえることにみごとに成功している。*2

これはコルトーショパン演奏を高く評価したエトヴィン・フィッシャーが書き残している句で、さいしょの「彼」とはショパンのことですが、おそらくこれは、あまりショパンを弾かなかった*3フィッシャーが、コルトーの演奏を通じて観念したところのショパン像であることにご留意あれ。

――しかし、こう書くと「何を当たり前のことを」とお思いの方も多いことでしょう。いかにも、ルバートというのが元来そういうものです。

しかしながら、ショパンにあってはあくまで「右手が何をしていても、左手はそれを知らないかのように正確にテンポをまもらなければならない」というのがテンポ・ルバートの方法論であって、その結果として、旋律線の伸縮が拍節内でやりとりされます。それに対して、繰り返しになりますが、コルトーは「左手のリズム」という大前提をあえて曖昧なものにしています。

思うに、ルバートの目的が拍節感と表情ゆたかなアゴーギグとの両立であることにはショパンコルトーも変わりはないでしょう。しかるに、前者が左手の正確なリズムを明示してそれを担保しようとしたのに対して、後者は、そうすることよりも「奪われた」テンポの復元力に依って拍節感を暗示し、聴く者にそれとなく感じさせることを選びました。いってみれば、ショパンの演奏では彼の左手がバロック通奏低音のような役割をはたしているのですが、コルトーの場合見えない指揮者がいて、両手がそのタクトにしたがっているかの感があります。

*1:二九年盤では歴然と手控えられていました。

*2:エトヴィン・フィッシャー『音楽観想』(佐野利勝訳、みすず書房

*3:フィッシャーのショパンを聴いたことがあるリパッティによれば、バッハやベートーヴェンを弾いていたのと同じピアニストとは思えないような散々の出来だったとか。

コルトーのショパン/第一バラード(四)

承前

――こう書くと、二九年盤はさもいいことづくめのように思われるかもしれません。いかにも、コルトーの同曲異演中もっとも万人受けしうるのは、おそらくこの演奏でしょう。ショパンの形式感が尊重されているし、技術は安定している――ということはすなわち、繰り返し再生してたのしむレコードというメディアの美学的要求にかなっている、ということでもあります。さらにいえば、演奏のよしあしとは直接の関係はないにせよ、すでに一家をなしていた自らのスタイルをある意味捨ててあたらしい解釈をとろうとした自己への厳しさも敬服に値するでしょう。

しかしながら、ここでひとつ種明かしをすれば、わたしがはじめて聴いたコルトーの第一バラードは三三年録音で、そこからさかのぼるような按配(要は、今回とりあげる順番と逆に)で二十年代の演奏に触れていったのですが、この二九年盤をはじめて聴いたときに感じたのは、率直にいって、物足りなさでした。

逆に、最初の録音しかコルトーの第一バラードがのこされていなかったとしたら、わたしはこれで十分満足し、ほかのどのピアニストの演奏よりも好んで聴いていたかもしれません(いえ、きっとそうでしょう)。極言すれば、再録音のことを念頭においてはじめて、彼がこの演奏に自足しきれなかったことが推測できるというだけのことで――ただ、コルトーを聴くことは一面、彼の問題意識を共有し、その思考の航跡をたどってゆくという営為でもあるので、演奏の如何とはまた違った観点があってもいいでしょう……

ともあれ、わたしの不満の正体は何だったのか、今にして思えば、まず第一に、いくら当人の意志によるものとはいえ、コルトー本来の流儀が手控えられているため、このピアニストならではの闊達さや生き生きとした情感が少々減殺されてしまっている点にあります――これは二六年盤は無論のこと、かれのシューマンやリストと比べても、です。

第二に、ショパンは当然ながらバッハでもなければモーツァルトでもありません。そのエクリチュールには古典的な性格と同時に、彼にしか書けない新しさも含まれていたわけで、それがショパン独自のロマンティシズムということになるのでしょうが、二九年盤は古典的な性格に重心をおいた分、そちらの側面が少々おざなりにされているような気がしてならないのです。

たとえば四分過ぎ以降の二度目のクライマックスなどは、燃え立つ炎のような旧盤にくらべるとどうしても色褪せて感じられます。そして、これに関しては最初の録音がやりすぎたというより「一歩後退」といった印象が――というのも、ここでは音楽自体に、バッハやモーツァルトだったら絶対こうは書かない(書けない)、古典的な観点からすれば「常軌を逸した」昂揚感が含まれており、それを上手くすくいあげているのは、二六年盤における「ロマン派弾き」としてのコルトーの手腕だったからです(コーダの「間」も、二九年盤がいちばんあっさりしています)。

端的にいえば、コルトーショパンの演奏において拍節感の保持とフレージングの自由とを両立させることに失敗しているのです――最初の録音においても、再録音においても。

わたしは先に、二六年盤においては派手すぎるくらい派手な部分と歌いまわしの硬い部分とが混在しているというようなことを述べましたが、二九年盤は、ロマンティックな華やかさをスタティックな第二主題に引き寄せるかたちで全体の統一感を担保したという見方ができなくもありません。もういちどコルトーの述懐を引けば、ここで彼は「単純に」ショパンを弾こうとして成功しなかった――ような気が、わたしにはします。

ヴィルサラーゼのラヴェル/左手のための協奏曲

某巨大動画サイトでヴィルサラーゼの弾くラヴェルの左手のための協奏曲を視聴したのですが、これがユーディナもビックリというハード路線でした。美感とかニュアンスとかいったたぐいのものが含まれる余地のまったくない、強靭な意志の塊そのものの重く武骨なタッチで、たとえていえば紙も破れよとばかり墨をたっぷり含んだ筆を叩きつけるさまが目に浮かぶような、そんなふうにしてピアノを弾きます。

このコンチェルトってこういう曲だったっけ、とおもってリヒテルの演奏(これも同サイトで聴くことができます)を聴いてみると、こちらでは、第二主題部などやわらかな表情で繊細にうたいあげられていて、弾いているのが西洋古典音楽であるからにはそうするのが二×二が四みたいに当然かつ自明なことと何とはなし思いこんでいたことにあらためて気付かされた次第なのですが、とにかく、ヴィルサラーゼはそういう場面でさえ聴き手にひと息つかせてくれるということがありません。それは難点といえば難点でしょうか――とはいえ、聴いているあいだはひたすら、蛇ににらまれた蛙のような心持でした。好き嫌いは別として、これほどスサマジイ聴体験もめったにありますまい。

アレクセーエフという若い指揮者の振るサンクト・ペテルブルグ・フィルは、この音ではあまりよく分からないというのが正直なところですが、少なくともトップ奏者の技量にはムラヴィンスキー時代のおもかげのようなものはほとんど感じられません。青年も精一杯重厚にやろうとしていますが、ヴィルサラーゼのピアノを前にしてはかすんでしまいましたね。

コルトーのショパン/第一バラード(みたび)

こちらの続きです)

こうしてふたつのレコードを聴いて感じたのは、相性ということでした。

一九二六年盤は、思うに解釈やスタイルに関してそれほど自覚的でなく演奏されたもので、コルトーの心づもりとしては、ウェーバーやリスト、シューマンを弾くときと同じように弾いていたというのが実際でしょう。ほとばしるような情熱、華やかなヴィルトゥオジテ、立て板に水の雄弁……ただ、このやり口がリゴレットパラフレーズや謝肉祭ではみごとはまったのに対して、ショパンではちょっとばかり「やりすぎ」にきこえてしまうのです。

体質からいって、「イメージの人」であるコルトーは、文学の世界やうつくしい風景に霊感の源をもとめ、描写的な標題音楽を多くものしたシューマンやリストにきわめて近しい演奏家でした。たとえば後者のロ短調ソナタのような作品においても、このピアニストのゆたかなイマジネーションと喚起力は≪ファウスト≫物語を生き生きと描き出しています。

一方、ショパンの成熟期の作品のほぼ全てが純粋な器楽曲であったことはご案内のとおりで、その書法は多く古典主義の範例に従っています。ここではコルトーの持ち味が、もちろんそれ自体としての魅力(みごとなパッセージ・ワーク、闊達な名調子……)は発揮しているものの、同時にショパンの音楽のととのった形式感を損ねる方向にも作用してしまっていることは否めません。

これを要するに、コルトーショパンとは、元来相性があまりよくないのです――これは何もわたしの独断などではなく、当のコルトーが、こんな述懐を遺しています:


……コルトーも、自分は単純にショパンを弾けないけど、あなたは単純にショパンがでるから、あなたのショパンこそ本物だよって言って下さった。自分のは屈折して七色のプリズムになって出てくるというのね。あなたのは孤独な音がするから、それはかけがえがないことだよと……(下略)
*1
「自分は単純にショパンを弾けない」とは大いに留意すべき告白でしょう。ショパンがニンに合わないくらいのことは、指摘されるまでもなく本人がいちばん良く承知していたのです。

相性というのはコルトーに限らず、ほとんどすべての演奏家について多かれ少なかれ当てはまることで、(先日触れたばかりですが)フルトヴェングラーモーツァルトムラヴィンスキーハイドン、はたまたクレンペラーブルックナーなど、「演奏家の片思い」というべき例は枚挙に暇ありません。

この三人の巨匠はいづれも名うての録音嫌いで、じぶんのレコードを聴く習慣もほとんどなかったためか、不得手なレパートリーは不得手なままで通してしまったのですが、コルトーは自らの二六年盤を聴いてよほど考えるところがあったとみえて、再録音ではほとんど正反対といってもいいくらいに解釈を一新しました。仔細はすでに述べたとおりですが、とりわけ拍節感と全体の構造のアウトラインを強調することを通じて格調と均整とに意が用いられており、旧盤が主観的にしてロマンティックであったとすれば、新盤は客観的かつ古典的です。

 間違った打鍵、リズムの緩急、解釈のファンテジー、即ち音楽の演奏における人間的美点は、その原因がインスピレーションにあり、はたまた神経作用にあるかによっては、音楽会の雰囲気に応じて、或は寛容され、或は正当視されるのであるが、機械による伝達の場合には、これは文字通り全く我慢の出来ないものになるのである。(……)その場合、音楽はその最も客観的体用、即ち「時に於ける建設物」として現れない限り、十分な効果はないのである。

コルトーの筆になる小文『演奏家の態度』にはこんな一文があって、気のせいでしょうか、まるで自ら第一バラードのふたつのレコードを比較した自己批判ででもあるかのように読めなくもありません。ミスタッチはともかくとして、「リズムの緩急、解釈のファンテジー」が一九二六年盤の旗印であったことはすでに述べたとおりですし、全体の構造のアウトラインに意を用いた一九二九年盤を聴く者は、まさに「時に於ける建設物」を目のあたりにした思いがするでしょう――

コルトーの批評精神、ということをつとに指摘しておられるのは遠山一行氏ですが、録音という自分の演奏を鏡のようにうつす装置を介して、その批評家の目は自らに向けられていったのです。

こちらに続きます)

*1:コルトーに学んだ遠山慶子女史の『光と風のなかで――愛と音楽の軌跡』より。「あなた」とは遠山女史のこと。